2014年10月7日火曜日

ちひろちゃん



朝。
床の間に敷いた布団でおばあちゃんがゼイゼイしてる。
あたちはいつものようにお薬を運んだ。
外は雨が降っている。
秋の雨が降っている。

「ちひろちゃん、おはよう」
「おばあちゃんおはよ」

おばあちゃんが体を起こそうとした。
首しか動かなかった。
あたちはコップでお薬をのませると、

「ゆっくり寝ててくだちゃいな」
と言った。

おばあちゃんは一度閉じかけた目を薄く開けて、
あたちを優しい目でみている。

「ちひろちゃんは優しい子だねぇ」
おばあちゃんのかさかさした声。
おばあちゃんがあたちの手をにぎった。

昼。
お薬の仕分けが終わったので、
あたちはまた床の間に行った。

おばあちゃんがお歌を歌っていた。
聞いた覚えのない歌だ。
でも、とても懐かしい気持ちになった。

「おばあちゃん」
おばあちゃんは寝ているようだった。
寝ながらお歌を歌っているんだ。
あたちはかけ布団をかけ直してあげた。
そこに、タカシちゃんが入ってきた。

「おい、ちひろ、昼ごはん作ってくれよ」
大きな声でそう言ってバタバタと床の間を出て行った。

「おばあちゃん、ちょっと行ってくるね」
あたちはそう言って台所に戻った。

夜。
雨はまだ降っていた。
小さくて細かい雨は家の中をシンとさせる。

「ちひろちゃんを見ていると、おばあちゃん元気が出てくるわ」
その夜のおばあちゃんはたくさんのお話をしてくれた。

小さな頃に見た夕焼けの美しかったこと。
好きになった男の子にいじわるされて悲しかった事。
鉄棒がクラスで一番うまかったこと。
一生懸命勉強して東京に出てきたこと。
お父さんが生まれて、本当に本当に嬉しかった事。

「記憶は優しいわ、どんなに辛かった事も楽しかった事も優しくなるの」
おばあちゃんが微笑んだ。
「おばあちゃん、もう寝てね」
あたちは少し心配になって言った。
「そうね、ちひろちゃんももう寝ないとね」
「おばあちゃん、あしたもお粥でいいかちら?」
「そうねえ、マーガレットが一番好きよ」
おばあちゃんが変な答えを言った。

深夜。
おばあちゃんがどたばたしている。
苦しそうにさっきのお歌を大きな声で歌っている。
あたちは台所に駆け戻って、お薬を持ってきた。
慌てて出てきたおかあさんに後ろからドンってされて転がってしまった。
「・・・・さーん! ・・・・さーん!」
大声で誰かを呼んでいた。
あたちの後ろでお父さんが言った。
「初恋の男の人の名前だよ」
お父さんは泣いていた。
お母さんも泣いていた。
やがて、救急車が到着した。
あたちは粉薬の包みをボウッと持って、
そこに立ち尽くしていた。

翌朝。
すっかり晴れた水曜日の朝。
おばあちゃんが戻ってきた。
冷たくて、固くなっていた。
あたちは何度も薬を持って、台所と床の間を行ったり来たりした。
「もういいのよ」
お母さんが言った。
「もういいの」
お父さんが言った。
「タカシ、ちひろを充電してくれ」
あたちはタカシちゃんに腕を引っ張られた。
充電したら、記憶がなくなってしまう。
そう思ったら、体が震えてきた。

「記憶は優しいわ、どんなに辛かった事も楽しかった事も優しくなるの」
今あたちがおばあちゃんの歌を歌わないと。

「お父さん・・この歌」
タカシちゃんがあたちの手を離して立ちつくした。
「おばあちゃんの歌だ・・」
お父さんがあたちに顔を寄せた。
「ぬれてる・・ちひろが泣いてる」
「まさか・・」
後ろで見ていたお母さんが、
「今日は充電やめて、おばあちゃんのそばにいさせてあげよう」
と言ってくれた。

あたちの名前はXperia-20HGI。
日本の携帯電話会社の介護用ロボット。
通称「ちひろ」

静かな午後。
あたちは、
床の間の陽だまりで
あたちのバッテリーが切れる音を、
かすかに聞いた。

おばあちゃんの優しい顔がジジッと揺れて、
暗闇になった。