2015年7月12日日曜日

刃鳴り 1 「亀腹」


若き天才、石田春吉率いる
インテリアショップCOREの一代勃興史
「東京インテリアショップ物語」番外編 5 

[ 稀代の削り師 武藤銀次郎 ]






sub-episode 5

「刃鳴り」

                           
1
「亀腹」


刃が鳴り始めた。

しばらく手の中の鉋(カンナ)を見つめていた銀次郎がふと顔を上げた。

開け放しの木戸。
その向こうを見る。

外は細かい雨が降っている。

その恵みに打たれて、新緑は色鮮やかに濡れているはずだ。

儂の目はもうほとんど見えない。
この数日、何も口に出来ていない。

わき立つ山の匂い。
遠くに渓流のせせらぎ。

***************************

その小さな庵は小田原と箱根湯本の間の山あいにひっそりと立っていた。早川の中流、その瀬が二股に分かれる脇にその平屋はあった。

周りに民家は無い。
ただ草が深く生えている。

ここに来てもう40年近くになる。


自分の歳はもう憶えていない。

80を越えた時、数えるのをやめてしまった。

庵の間取り。
20畳ほどの畳間と縦に長い10畳ほどの土間しかない。土間の端に小さな炊事場がある。

一人暮らしには広過ぎるこの庵も、住み続ければ案外住めるものだ。

銀次郎は止めた手を再び動かし始めた。

かさついて筋張った手に握られた手鉋(カンナ)。台座に黒柿を使った特注品。遠い昔に賜った記念の品。

腹に埋め込まれていた菊の紋はその昔、銀次郎自らが外して捨ててしまった。

手に引っかかるのが嫌だったからだが、その他にも理由がある。

ピィィ
腹を空かせたトンビの甲高い鳴き声が外から聞こえた。

銀次郎は椅子を削っている。
椅子を削るのは久しぶりだった。

もう40年以上、箸だのカラクリ箱だのしか作ってこなかった。それらは小田原や湯河原に軒を連ねるみやげもの屋に並ぶ。銀次郎は、その上がりで食ってきた。


銀次郎は手を動かしている。


カシュッ

カシュッ

と、木の繊維が削られる小気味良い音が庵に響く。


そして、先ほどより鳴り始めたこの音。


キィンキイイン・・・。


手の中のカンナの刃が鳴っている。


幻聴なのはわかっている。

儂はこれを知っている。
ひどく遠い昔に聞いた音だ。

そう。

この音があいつを連れて行ってしまったのだ。

インインイン。


そうか。


今度は儂を連れて行くか。


善い。


今度こそ儂を連れて行け。


屈み作業に入った。


それを待っていたかのように、作務衣の下腹が引き攣れたように痛んだ。


手を遣る。

大きく固いしこり。
もう最近はしこりなどという大きさではない。

亀腹。


胃がんだ。


善い、善いのだ。


銀次郎は引きつったように唇を引いた。おめおめと生きながらえてきた。

潮時などとうの昔に越えている。

腹を押さえて座り直す。

椅子の背もたれ・・。
笠木と己の目線の高さを合わせる。

つい先月、この庵にふらりとやってきた小男の顔を思い出した。

そいつは玄関戸をガラリと開けて、躊躇もせず、いきなり土間に入って来た。奥で箸を削っていた儂に、その男は短く刈り込んだ茶色い髪を撫でながら唐突に言った。

**************************


「あ、じいさんが銀さん?」


儂は男を無視して手を動かし始めた。


「あーえーっと・・・

椅子を作ってくんねーかな」

男がそばに寄って来て

儂の目の前にかがんだ。

「あれ?じいさん・・耳聴こえないの?」


儂の顔を覗き込む。


「・・・家具は作らん」


男を見ずに儂は言った。


「うん。まあ、そう聞いてるよ、俺も。あ、あと下の奥村さんからの伝言で今は安静にして寝てろってさ」


坂の下の奥村医院で道を聞いたか。この場所の案内はするなと言ってあったはずだが。


しかし・・・。

礼儀知らずの男だ。

そう思ったが、儂には他人に礼儀云々を言う資格などない。

「帰れ」


それだけを言った。

その男は頭をガリガリ掻きながら

ポツリと言った。

「あんたの息子をやっつけてーのさ」


一瞬・・息が乱れた。


が・・・。


「儂には関係のないことだ」


と答える。


「あっそ。

じゃーいーや。
俺も舞に言われて来ただけだからさ。
じゃあな、邪魔したな」

男が儂に背を向ける。


舞・・舞だと?

「ちょっと待て、小僧」


ほらきたとばかりに振り返る男。

へへっと笑う。

「舞というのは・・・」

「朝倉舞だよ」

男が儂の言葉に被せて言った。


「朝倉善次郎の孫さ。

あ、今ウチで働いてんのね」

朝倉善次郎。

三越百貨店の元社長。
現在は同社筆頭の大株主。
そして
かつての儂の弟弟子。

「舞は健一の所にいたはずだが?」


「まー、いろいろあってさ・・・。

簡単に言や、あんたの息子の問題さ」

「お前の名は?」


「石田春吉」


「儂に椅子を作らせてどうする?」


「さっきも言ったろ?

武藤健一を懲らしめてやんのさ」

沈黙が訪れた。

時計の音が土間に響く。
初夏の湿度が・・・
むうっとその密度を増している。

「材は何を使う」


己の口が勝手に開いた。

何を予感しているというのだ。

「あ、作ってくれんの?」


「いや、そうは言っていない」


石田春吉と名乗った男は視線を右上に向けた。何かを考えているような。そんなフリをしているだけのような。人をくったその姿。腕組みをして胸を張るその姿。

どこかで見たような気がした。


その顔がこちらに戻る。

無理矢理、目を合わせて来た。
そして言った。

「しおり・・・」


その言葉の意味を理解する前に、両腕を鳥肌が被った。


「な、なんだと」


ふらりと立ち上がった。


石田春吉が気圧されるように後退った。

「ワレ、今なんと言った?」


「しおり?しゅり?あれ?なんてったっけ?・・・あっ、シウリだ。シウリ桜だ。道産の」


頭が血を失って目眩がした。

そのまま土間に崩れる。
それを石田春吉が抱きとめた。
儂を木箱の上に座らせる。

「われ・・どこまで知ってる?」


儂は、その手を振りほどいて言った。

石田春吉が立ち上がって背を向けた。そして、ズボンのポケットに両手をズボッと突っ込むと膨れたような顔をして振り向いた。

「アイヌの神木、詩織、銀次郎、善次郎、三越製作所、名匠展。・・・そのあたりは知ってるよ」


善次郎から聞いたか。

いや、舞から聞いたのか。

鳥肌が引いた。


代わりにプツプツと汗が出始めた。

「あのシウリか?」

「ああ。あのシウリだ」
「なぜお前があの材を持ってる?」
「旭川の仙人を口説いたんだよ」

『あのシウリ桜はお前にはやれん』


土下座する儂の前。

仁王のような師匠の顔。

お師匠・・・まだ生きていたのか。


「張りの作業はできんぞ」


儂はようやくそれだけ言った。


「そりゃそうだ。板座を削ってもらわなきゃ困る。あんたはもう一度、名匠展をやるんだから」

「名匠展…」

『カレーが食べたいです。中村屋の』

鈴のような声。

耳の奥に蘇る

詩織・・・。


今の儂にあれができるのか?

儂は自分の亀腹に手を置いた。
いや。
今も先もない。
今しかないのだ。

そうか・・・。
そういうことか。
あの時すでに儂は己の死を予感していたのだ。

「銀さん・・。いや、武藤銀次郎。俺はよ、あんたに最後の仕事をしてくれって言ってんだぜ?自分でもわかってんだろ?幕引きの大事な時に・・・死ぬ寸前によ、箸なんか作ってんじゃねーよ。あとな、あんたの代わりにあんたの息子を、俺が更生させてやる。俺に椅子を作れ、名匠展に出した一寸構造を越える座椅子を削れ !!」


石田春吉の声を遠くに聞きながら、

儂は遠くを見ている。
遥か昔の記憶を見ている。

『銀さんはすごいよ、あんたはすごい。誰が認めなくてもあしだけは一番それを知ってる。それじゃダメですか?ダメなのですか?』

善次郎・・・。

『父さん・・・。俺は決して父さんを許さない。あなたの言う家具を呪って生きてやる』


健一・・・。


背を向けた息子の後ろ姿。

遠くなって行く。

健一・・・。


「一つ最後に聞きたい」

「なんだよ?」

石田春吉。

ふてくされたような顔。腕を組んでふんぞり返った小さい体。
そうか。
この若造は・・・
お師匠に似ているのだ。

「お前は健一のなんだ?」


ヒュウと風が一迅、
土間を抜けて行った。

「俺が?
武藤健一の?
何かって?」

石田春吉の唇がゆっくりと持ち上がる。


儂はその答えの予感に頭を下げる。


「俺は奴の・・・・」



*******************


半月後。

外は細かい雨が降っている。
その恵みに打たれて、
新緑は色鮮やかに濡れているはずだ。

儂の目はもうほとんど見えない。

この数日、何も口に出来ていない。

それでも・・・。


わき立つ山の匂い。
遠くに渓流のせせらぎ。

儂の鼻と耳はまだ辛うじて使えている。


なによりも・・・。

儂の手が・・・。
まだこうして動いておるのだ。

シウリ桜の削れる音。

仄かに香るシウリの匂い。
長く乾燥した木が削れる感触。

手元の座椅子の木取りと荒削りは、もうほとんど完成している。何のミスもなく、あっという間に終わってしまった。それはそうだろう。なにせ40年間かけて、頭の中で何千回と繰り返してきた作業なのだから。

ここからは、あれだ。


頭の中のディテールと、こいつを重なり合わせていく作業だ。思う存分カンナを使う。それは心の泡立つ作業だった。


一つ削って友を削ぐ。

一つ削って親を削ぐ。
一つ削って子を削ぐ。

己は削げるのか?

愛は削げるのか?

刃が鳴っている。

刃が鳴っている。

そして、儂はシウリと2人きりになる。

世界に・・・立った2人でポツンと居る。

神木よ、神居よ。

お前は彼の大地でどれだけ生きた?
・・・。
そうか。
これがお前の記憶か。

ここは?大風か。

辛かったろう。

ここは?寒波か。

苦しかったろう。

ここは?長い春だな。

楽しかったな。
この葉影で鳥は歌ったか?
この枝を栗鼠は走ったか?
この根股で熊が寝たのか?

ああ。ここは?

これがお前が倒れた原因だな。
悲しかったな。
くやしかったろう。

大丈夫だ。

儂が全部削り出してやる。
その想いを形にしてやる。
そして。
最後に残るものがあるはずだ。
儂の様にお前にもあるはずだ。

それを儂に見せてみろ。


どこだ?

その記憶は何処にある?
怖がるな。
儂にまかせておけ。

ああ、それとな。

一つ約束をしてくれ。
お前だけはどこにも行くな。
お前だけは儂を置いて行くな。

どうしたここをこんなに赤くして。

ああ、儂か。
儂の口から垂れてしまったか。
すまん。
今拭くからな。

刃が鳴っている。

刃が泣いている。

詩織。

愛。

儂は今、深海にいる。

蒼く昏い海底に沈んで行く。
儂はそこで一筋の光を探している。

お前のどこかにそれはある。

必ずあるのだ。

あとどれくらいだ?

どのくらいで見つけられる?

二日か・・一日で終わるか。


それともたった今か。

あとひと削りで見つけてしまえる気もするし、永遠に見つからない気もする。

しかしここからだ。


いずれにせよ、ここから、


儂の長い旅が始まるのだ。



つづく

2015年6月26日金曜日

「東京インテリアショップ物語」番外編 [幹の桜]



若き天才、石田春吉率いる
インテリアショップCOREの一代勃興史
「東京インテリアショップ物語」


番外編 4
[ グラフィック博士、佐藤シンペーの物語 ]




sub-episode 4

「幹の桜」


1

広告代理店に勤める、佐藤慎平の妻が姿を消したのは6月の蒸し暑い夜だった。

深夜過ぎの帰宅。

鍵穴を回した時の感触がいつもと違っていた。いつもよりふわっとシリンダーが回った感じ。

玄関口から見える、暗いLDK。
カーテンを引いていない窓。
6月の雨がガラスにいく筋もの雨だれを作っていた。

ダイニングテーブルがキレイに片付いていた。僕はそこに何か普通じゃない雰囲気を感じたんだ。なにかすごく大事なものがまるっと抜け落ちたような、不吉なテーブル。普段、勘のニブい僕がその晩はやたら冴えていた。

「美沙ちゃん?」

僕は小声で妻の名前を呼んでみた。
返事はなかった。
かわりに冷蔵庫がウィーンと音をたてた。

僕は靴を脱ぐのももどかしく、あわてながら、手近のトイレとバスルームを確認した。どこにもいなかった。最後の部屋。ベッドルーム。普通に考えて、ここにいるはずなんだ。でもなんだろう。この感じ・・・。

ノブに手をかけて、開いた。

美沙はいなかった。

奥の窓の側。

ベビーベッドに娘の夏姫が立っていた。
こちらに背を向けて、柵に付いた小さなマスコットをいじっていた。

「夏姫ちゃん!!」

僕の声に夏姫が振り向いた。
夏姫が、はにかんだように、
にこっと笑った。

「お母さんは?
どこに行ったの?」

1歳半の夏姫。
まだ言葉を喋れない。
なぜかまだ、ハイハイもできない。

「お母さんどこ行ったんだろうね」

抱っこすると、
彼女は一瞬、キョトンとした顔をして、
そして急に堰を切ったように泣き始めた。
おなかを僕の顔につけて、僕の頭に手をまわして、しがみつくように大きな声で泣き出した。

ど、どうしよう。
とりあえずミルクを作った。
彼女はそれをングングと飲み始めた。

飲み終えて、まだ泣きそうだったから、僕は夏姫をだっこして「よしよし」って背中を優しく叩いた。そしてその格好のまま、右手で携帯を取り出した。携帯電話、SNSメッセージ、LINE。考えられる連絡先に全部連絡を入れた。レスポンスはなかった。そうだ。何かの事故かもしれない。警察だ。もう一度iPhoneに目を落とした時、ギクっとした。メールの件数表示アイコン。「1」。AM2:00。最後にメールをチェックしたのは自宅のマンションに着いた時。こんな深夜に他人からメールなど来るはずもなかった。あわててメールを開いた。

「慎平へ」から始まる超長文のメール。美沙ちゃんからだった。知らずのウチに正座になった。読み進める。そこには、出会った頃の気持ち、それがどのように変化していったか、どんな心の変化が起こり、何が辛かったか、そして最終的に出した結論に今どんな気持ちでいるかが克明に書かれてあった。でも・・・。そこには僕のことも夏姫のこともまったく書いていなかった。

「全部自分のことじゃないか !!」

僕は携帯を床に叩き付けた。腕の中で、半分寝かけていた夏姫がハッと起きて、僕の顔をピシャッとたたいた。

「あ、ごめん」



2

「で?なんでウチなんだ?」

中目黒のボロアパートの2F。
窓から目黒川が見える。
夏姫が新ちゃんの背中に乗っている。
その向こうに桜の木の緑。

「だって、新ちゃん就職浪人だし、まだ保育園決まってないんでしょ?」

夏姫が新ちゃんの鼻を引っ張っている。

「勉強してるんだよね?保母さんの、あ、保父さんか」

「まあな」

新ちゃんがアイドルみたいなきれいな顔をブルッと振った。
夏姫がキャッキャッと笑った。

新ちゃん、伊藤新。
新ちゃん、幼稚園から大学までずっと一緒の親友。
新ちゃん、女の子だけど、心は男。
新ちゃん、性同一性障害の幼なじみ。

幼い頃から引っ込み思案の僕をいつも助けてくれた新ちゃん。いじめられると飛んできて、いじめっ子たちを蹴散らしてくれた、僕の英雄。

「なあ、シンペー。俺言ったよな、美沙ちゃんはやめとけって。こうなるのは分かってたんだぜ?」
「うん」
「で、どうすんの?」
「どうするって?」
「会社は?天下の電通は?やめんの?ようやく念願叶ったんだろ?」

僕の夢。
言葉をうまく使えない僕に神様がたった一つ与えた能力。
グラフィックと映像の才能。
僕はこの能力で世界を幸せにしたい。
そう思って入社した会社。

「やめない・・やめたくないよ」

夏姫をチラッと見た。
あっ。
おむつがパンパンになってる。

「じゃあ、美沙ちゃんを探すしかないな」

僕はおむつを替えながら頷いた。

「うん」
「しょうがねえな。じゃあ、お前の出勤中はここで預かってやるよ。男の世話すんのは絶対ごめんだけど、お前は・・・昔から、まあ別もんだし、夏姫は女の子だしな」

だけど俺の就職が決まるまでだぞ。
新ちゃんが夏姫を見ながら言った。

「大丈夫?彼氏、あ、いや彼女さんとか来ない?」

ははっ。今はいねーよ。
新ちゃんが笑った。



3

美沙ちゃんの実家に行ったり、
住民票を追いかけたり、
置いていったPCからGPS使ったり・・・。

考えられることはすべてやった。
でも彼女を見つけることが出来なかった。

夏が終わり、秋になった。

会社の仕事が手に付かなくなってきた。僕は二つのことを追いかけられない。昔からそうだ。とことん不器用で自分が嫌になる。同期のみんなの配属が決定していくのを見ながら、僕はうなだれた。

夏姫がいなければ僕だって・・・。
そう思うようになった。

でも本当は違うんだ。
僕は複雑な仕事に向かない。
単純明快な仕事を深く掘り下げる方が性にあっている。

それを夏姫のせいにしようとしているだけだ。


表参道のスパイラル カフェ。
上司の仕事の打ち合わせ。
予算表を渡すだけの仕事が2件。
一件目が早めに終わった。
次の予定が同じ場所で30分後か・・・。
僕はMacを開いた。
作りかけのグラフィックをいじる。
これをやっているときだけ、いろんな悩みから解放される。
アイスコーヒーのおかわりを注文した。

夢中になってキーボードを叩いていると、僕の肩に誰かが手を置いた。振り向く。茶色い短髪の小柄な男が立っていた。

「これ、STAR WARS?」
「はあ」

知らない人とはなかなか上手く話せない。

「すげえな」

その男が呟くように言った。STAR WARSの6作品を一枚のグラフィックにまとめたコラージュ・ポスター案。僕が勝手にやっているお遊びだ。

「すげえよ。これ一枚で全部分かる。ストーリーもそうだけど・・うーんなんて言うかな。だってさ、このタイトルロゴ。これお前が作ったの?」

あ、そこ気づいた?嬉しくなった。

「えーとですね、一作目の当初は、もちろん、あの正規ロゴで良かったんですけど、こう時間も経って、内容や時代も変化してくると、あのフォントのままじゃ気持ち悪いというか・・」

僕はハキハキ喋った。

シンペー、そのハキハキした感じ。オタクっぽくて気持ち悪いぜ?新ちゃんの言葉を思い出してハッと口をつぐんだ。

しかし、その男はフンフンと真剣に聞いていた。そして急に振り向いて大声を出した。

「アキラ!! すげえぞこいつ、天才だ !!」

つられてそっちを見た。アキラと呼ばれた長身の男が手をひらひらと振った。

「春吉、こっちが終わってないんだけどな」

春吉と呼ばれた男はチェッと舌を鳴らすと、またこっちを見た。

「お兄さん、家具に興味ない?」

家具?
あの日の光景。

きちんと片付けられた、
不吉なダイニングテーブル。

家族が壊れた日のあのテーブル。

・・・我に返った。

「あ、家具は怖い・・です」

思わず口走った。

「怖い?」
「テーブルが怖いです」
「テーブルが怖いって、お前家族に何かあったのか?」

ドキンとした。
なんで分かるんだ?

「テーブルってのは家族の象徴だ。それが怖いってのは家族になんかあったってことなんだよ」

と言って、春吉という男がニカッと笑った。

家族の象徴・・・。

「まー。興味ありってことだな」

春吉が名刺を僕に放った。

「今度、ここら辺に店作るから遊びに来いよ」

と言って、もとの席に戻って行った。



4

いつの間にか冬が終わろうとしている。


日曜日。
人のまばらな初春の目黒川。
桜のつぼみはまだ開かない。

開花すれば、ちょっとさみしいこの風景は一変する。人も沢山詰めかける。

夏姫は元気だ。新ちゃんが押すベビーカーの中で意味不明な歌を歌っている。まだ言葉は喋れない。それどころか、まだハイハイもおぼつかない。立つのは早かったんだけどな。

「発達、ちょっと遅いよな」

新ちゃんが言った。

「うん」

僕は答える。

「調べたんだけどさ、あんま気にしなくていいみたいよ。そのうち一気に来るって」

通行人が新ちゃんを見て振り返る。芸能人と勘違いしているんだ。なんで新ちゃんは中目黒なんて芸能人だらけの街に住んでるのかな。

「一気に来るって?いきなり歩き始めて、いきなり喋り始めるってこと?」

ベビーカーの夏姫を見る。あぶあぶ言いながら、ベビーカーの一部をしゃぶっている。この子がいきなり歩き始めて、いきなり喋り始める?

・・・ちょっと想像がつかないな。

「今、いろいろ溜めてんだって、きっかけがあれば、うん、そんな感じでいきなり来るらしいよ」

「ふーん」

新ちゃんが何か言いたそうにしている。女の子みたいに少しモジモジしている。まあ、どこからどう見ても女の子なんだけど。いや・・・というか、新ちゃんは最近変わった。前みたいに俺って言わなくなった。短い髪が最近は伸びている。簡単に言うと女の子らしくなってきているんだ。なんでだろう。言いたそうだけど言えないなんて、新ちゃんらしくないな。

「どうしたの?」

と聞いてみた。

「あ、うん。あのさ、シンペーにちょっと聞きたいんだけどな」
「何?」
「あ、いや、家族ってなんだろうな」

家族?
春吉という男が言っていた。

「テーブル?」

僕の返答に新ちゃんが口をムグッてさせた。はぐらかされたと思ったのかもしれない。

「まあ、いいや、忘れてくれよ」

そう。新ちゃんは最近ちょっとおかしい。就職先がまだ決まらないからかな。世の中、これだけ待機児童が多いのにな。新ちゃんをチラッと見た。やっぱり、履歴書の写真がスーツだからじゃないかな。でもそれは言えない。彼女の存在の問題だから。命をかけてもゆずれない一線だから。そう思って新ちゃんを見た。何か違和感・・ん? あれ? スカートはいてる。初めて見たな。新ちゃんのスカート。

新ちゃんがお店の前で立ち止まった。じっとショーウィンドーを見ている。ぬいぐるみの専門店だった。ドイツのブランドの直営店らしい。

「よお、シンペー、夏姫のプレゼント買ってやれよ」

そうだ。もうすぐ夏姫の2歳の誕生日だった。新ちゃんが憶えてて、僕が忘れていた。

夏姫がいなければ、仕事も上手くいくのかな、なんて最近考えてたから、忘れたんだな。きっと。

昨日の電話。
九州の僕の実家。母のセリフ。「夏姫ちゃんは一度ウチに預けなさい。もう美沙さんは戻ってこないんでしょ?新ちゃんに預けとくのも夏姫ちゃんにとっていいことじゃないわ。お父さんもいいって言ってるし、あなたはちゃんと今の夢を追いかけなさい。ね。来週迎えに行くからね」

僕の夢。
グラフィックと映像で世の中を幸せにすること。

僕はすぐにその話を新ちゃんに打ち明けた。新ちゃんはしばらく黙っていたけど、「そうだな。それがいいよな」って最後にはそう言ってくれた。

僕らはその店で小さい犬のぬいぐるみを買った。芝色のそいつはちょっと困ったような顔をして、ペロッて舌を出していた。

首輪にロゴが書いてある。
[ ファミリー&フレンド ]

夏姫に手渡した。
夏姫は・・・
そいつをぎゅーっと抱きしめて・・・
にへっと笑った。

「わんわんだよ?」

僕は顔を夏姫の顔に近づけて言った。

「言ってごらん、わんわん」

ぷすー。

夏姫は変な吐息を吐いて、
なぜか僕を見つめた。

「わんわんだよ、わんわん」

ぷすー
ぷすー

夏姫が犬のぬいぐるみをポイッと捨てた。
そして僕を小さな指で指差した。

お前のことわんわんだと思ってんじゃねーの?と新ちゃんが笑った。

「夏姫・・・・何か言ってよ」

ぷすー

僕の目に涙がにじんだ。
春の目黒川。

桜の枝木が小さなつぼみをつけていた。優しい陽だまりがあちこちにできていた。でも、本当の春はまだ先のようだった。



5

「慎平、もたもたしないで!!」

さっきから母が僕をせかしている。
ぼーっとしていた手を早めて、僕は夏姫の洋服をカバンに詰めた。

母が夏姫のベビーカーを開いたり閉じたりして研究をしている。
ふーん最近のものはよくできているのね。
夏姫は床にごろごろ転がっている。

夏姫のモノが無くなったら、部屋がとてもがらんとした。

ダイニングのテーブルに春の光が落ちていた。

美沙も夏姫もいなくなるのか。
このテーブルで僕は毎日たった一人でご飯を食べるんだ。

「あ」

わんわんを忘れた。
新ちゃんの家だ。
母に言った。

「いいじゃない。そんなの博多でも売ってるわ」

でも彼女のお気に入りなんだよ。新ちゃんにも最後の挨拶しないと。世話になったんだし。母は、まあ、そうね。とブツブツ言ってついて来た。僕の気変わりを警戒しているのだろう。夏姫にも僕にもこれが最良の方法よ、毅然としてなさい。昨夜母はそう言っていた。

タクシーが新ちゃんのアパートについた。桜はまだ咲いていなかった。最後に夏姫に見せてあげたかったな。

新ちゃんがぶすっとした顔でアパートの前に立っていた。胸にわんわんをぎゅっと抱いていた。

母が新ちゃんに挨拶した。
いろいろありがとうございました。
母はわんわんを受け取ると
ベビーカーに夏姫を乗せた。
さてと、じゃあ行くわね。
駅まで送るよ。
僕の意見は通らなかった。
キリがなくなるからと母が言った。

目黒川沿いの小道。
夏姫が遠ざかって行く。

夏姫のいろんな表情、
夏姫のいろんな仕草。
すごく大事なものが・・・
遠ざかって行く。

ぼんやりとした朝の春霞。
僕らはポツンと2人ぼっちで立っていた。
横に立つ新ちゃんが口を開いた。

なあ・・。

僕はうつむいた。
目の端に桜の花が見えた気がした。
ハッと顔を上げた。
幹に大きく桜の花びらが咲いていた。
今年初めての桜だ。

その時。

「わんわーん」

遠くから声が聞こえた。

「!」
「・・・え?」

新ちゃんがへたりこんだ。
ああ。
僕らが間違うわけがなかった。
夏姫の声だった。

「わんわーん」

へたりこんだまま新ちゃんが言った。

呼んでるよ・・・。
シンペーを呼んでるよ。

遠くで母が座り込んでいる。
すごくむずがっているようだ。
ベビーカーから夏姫をおろした。
夏姫が両手を道路につけた。
その体勢で数秒、
プルプルと震えて・・・。

「夏姫・・・」

彼女は、ゆっくりと立ち上がった。

そして・・。

新ちゃんが口に両手を当てた。

「夏姫・・・」

遠目にもわかる。
短い両手を前に出して、
一歩
一歩

『一気に来るって?いきなり歩き始めて、いきなり喋り始めるってこと?』

こっちに
歩いてきた。

新ちゃんがガバッと立ち上がった。

「シンペー ! !」

僕の手を握った。
握った手を僕の目の前に振りかざした。

「こういう家族でもいいんじゃないのかなぁ!」

わかってる。
わかっていた。

新ちゃんが少しづつ変わっていた理由も、僕は心のどこかで気づいていたんだ。

「あたしはこんな人間だけどさー
結婚できるかなんてわかんないけどさー」

いいよ、新ちゃん。
分かってるって。

「慎平の気持ちも分かんないんだけどさー」

「わんわーん」

その三度目の声に、
僕たち2人は同時に走り出した。
桜並木の視界が流れた。

気づくと
幾つもの桜の花。
季節が今、
動く。


僕の夢。
グラフィックと映像で世の中を幸せにすること。

世の中・・・?

世の中って誰だ??

それは夏姫より大事なものなのか??

夏姫ごめん。
お父さんいくじなしでごめん。
お前に答えを出させて・・・ごめん。

「夏姫ーーーー !!!」

つまづいた。
転んで顔を上げたら、
夏姫の顔が目の前にあった。

「・・・わんわん」

夏姫が僕の鼻を押した。

「わんわんじゃないよ。
お父さんだよ・・・」

声に出して泣いてしまった。
心に・・
きれいな水みたいな
何かが満ちて行った。

僕と新ちゃんは、
笑いながら泣いていた。



6


夕焼けの帰り道。

「新ちゃん・・」
「なに?」
「テーブルが欲しい」
「ふーん」
「一生使えるやつ」

僕と新ちゃんと夏姫。
ほんとはちょっといびつな3人が一つのテーブルを囲む。

『家族って何だろう』

新ちゃんは前にそう聞いたよね。
僕はね、家族の形なんて、
家族の分だけあるって思うんだ。

『テーブルは家族の象徴なんだよ』

春吉って言ったっけ。
彼はテーブルを売っているのか。
それって・・・。
すごく単純で、
すごく幸せな仕事だな。

今度、彼の店に3人で行ってみよう。

「ねえ、新ちゃん・・・」

新ちゃんが振り向いた。

「家具屋ってどう思う?」



ーおしまいー
















2015年6月20日土曜日

生きる音


若き天才、石田春吉率いるインテリアショップCOREの一代勃興史
「東京インテリアショップ物語」番外編3

孤高の接客士、朝倉舞の光と影




sub-episode 3
「生きる音」




病室の窓の外
彼女は山の間に光る青い海を見ていた
僕と同じ15歳
でも違うのは
僕が死ぬ病気で
彼女は死なない病気だということだ

彼女はああやっていつも外を見ている
ほとんどしゃべらない無口な子だった
寝苦しい夜とか
ヒンヤリとした朝に
彼女はポツンポツンと話す
部活はやってるの?
演劇部
どんな作品が好きなの?
アンナカレーニナ
そんな感じだ

今、窓からの光りが彼女を透かしている
彼女は半分光りに融けていた
とてもきれいだ
舞台の彼女はもっときれいなんだろう
僕は思い切って言ってみた
君の舞台を見てみたい
その時彼女は頬を染めてこう言った
うん。見にきて、約束ね
僕は嬉しくて
布団の中で両手をギュッと握った
文化祭・・・
秋か
がんばろう
それまではなんとかして
生きるんだ





私はその子と同室になった時
とても恥ずかしい気持ちになった
彼は知らないだろうけど
私はずっとその子が好きだった
クラスがいっしょになったことはない
でもいつからだろう
私はずっと彼が好きだった
廊下ですれ違うときは
いつも緊張して
彼の上履きしか見れなかった

私はうまく言葉を喋れない
昔からだ
友達ともうまく遊べない
だから小説や映画に没頭した
そして演劇に出会った
これしかないと思った
その世界の言葉は
私の言葉ではない
だから私は舞台の上でだけ
言葉を話すことができた

ある日いつものように
私がぼんやり外を見ていると
彼が言った
君の舞台を見てみたい
おもわず振り返った

見て欲しい

私はあなたに伝えたいことがある
どうしても伝えたいことがある
演劇のセリフに本心を乗せてこの想いを
あなたに伝えたい。
この先・・・
世界中の誰とも話せなくてもいい



お母さんと先生が廊下で話をしている
しばらくして
お母さんが僕のベッドにやってきた
いい子、いい子ね
僕の頭をなでた
隣のベットで彼女がそれを見ている
赤ちゃんじゃないんだから
やめてくれよ
でもそれは言葉にならない
代わりに
ひゅう
という風のような音が僕の口から漏れた


彼のお母さんと先生の話を聞いた
奇跡的だ
このままだと夏を越せるかもしれない
何があったのかは知らないが
今の彼からは生きる希望を感じる

私は胸の前で手を握った
それしか時間がないのか
秋までもたなかったら
私はこの気持ちを伝えられない
彼のお母さんが出て行った後
私は彼のベットの横に立って
彼と向き合った
今言えるなら・・・
今・・・
私は
口をパクパクさせた

茶色い髪が好き
優しい目が好き
照れた顔が好き

でもやっぱり
私の言葉は出てこなかった


[その夜の音]

2人の寝息の音

静かな
静かな
病室の
白いカーテンが
風になびく音

優しい
優しい
潮の香り
そして遠くに
波の音

月と満天の星の下
微かな
微かな
生きる音






何かが割れる音。
私はガバッとと布団を剥いだ。跳ね起きた。彼がベッドの上で暴れていた。ものすごい声を出していた。ベットの下。点滴のビニールケースや薬瓶が割れて粉々になっていた。私の心臓が跳ね上がった。ダメっまだダメッ。ナースコールを何度も何度も手のひらで叩いた。飛んで行って、私は彼の肩に手を置いた。凄い勢いで弾かれてしまった。彼が海老みたいに跳ねるのを見て悲鳴をあげた。ダメっそんなのダメ。もう一度私は彼に向かって、頭から突進した。抱きしめた。お願いお願いおねがいい。彼がうわごとのように何か言っていた。口に耳を寄せた。ザザザザという変な音に混じって、ごめんごめんと彼が謝っていた。何度も何度も謝っていた。私はその意味が分かった。秋まで待てなくてごめん。もう一度今度は彼の枕元のナースコールを叩いた。早くしてっ!! 早くッ!! 死んじゃう死んじゃう死んじゃうから!! 私の二の腕に、カッカッと彼が何か変なものを吐いた。それを見て私は悟った。今だ今しかないんだ。私は彼の体から離れた。そして彼の目に言った。見てて、見ててよ。絶対目を閉じないでよっ!!

ミーシャが宮廷ドレスの両端を掴んでお辞儀をする。華麗に少し小首を傾げて。

見てる?見えてる?

ナボコフが面食らったようにして、
ミーシャを見つめる。
手の甲を口に当てる。
ちょっと溜めてセリフ。

「まあ、閣下。ここにいらしたのですか。私はあの時あの列車の一号車から最後の特等車まで何往復もあなたを探しましたの」

ああっだめだよ
向こうをむいちゃった
こっちだよ
私はこっちだよ

ここで右下に視線を落として、
クルッとターンして窓に近寄る。
木の扉の蝶番が錆びているだろうから
こう・・力を入れるように開ける。
そして意思を強く持って外を指差す。

「いつかあなたの言っていた楽園。私は一人で探しに行くわ。その先で私はまた誰かを愛し、子供を育てることでしょう。でもどうぞご心配なさらずに。だって私は・・・」

振り向く。


「いつもあなたと共にいるから」


彼の目が私をちゃんと見ていた
私は生まれて始めてって言うくらいの



大きな大きな声をあげた



「心はあなたとずっと共にいるから!!!」



先生と看護婦さんが扉からなだれ込んできた。誰かに突き飛ばされた。倒れた。あなた何やってるのっ。怒鳴られた。病室が騒然とした。先生の声。すぐ治療室を・・・今すぐ!!「好きなのっ」部屋の隅で私は叫んだ。彼のベットが動いた。「茶色い髪と優しい目と、えっとえーっとそれからそれから、あー!! もっといっぱいあるんだけどなー!! うまく喋れないんだよなー おかしいなー!!! ダメだぁわたしはダメだー」彼がそのまま運ばれていく。病室のドアを出る時、彼は首を曲げて目だけで私を追った。彼の口が少し動いた。

ありがとう。

「やだーーーいやだーーー」
私は四つん這いのまま床に叫んだ。





「何をボーッとしている」

武藤健一が言った。
朝倉舞がハッと顔をあげる。

「あ・・はい」

電車が湯河原の山間を走っている。
時折青い海がその合間に見え隠れする。

「ちょっと昔のことを思い出してて」
「そうか」
「ずっと忘れてたんだけどな」

昨日会ったあの若い男。あいつに会ってから、私はどうも少しおかしいようだ。

そういえばあいつも髪が茶色かったなぁ。

目の前の男。

ビジネスという舞台で、
私にセリフと配役を与えた男。
私に初めて自信を与えた男。

でも、私には何も与えさせない男。私どころかこの世の誰にも愛情を持てない男。そしてそれが凡百のライバルが束になってもかなわない、この男の異常な強さの所以でもあるのだ。

哀しい男?
違う。
これも一つの強さだ。
この男は紛れもなく、
最強の男だ。

「健一さん?」

あなたの目指している楽園。
でも、そこはやっぱり、
私の向かう場所ではないみたい。

「私は行くよ」
「どういう意味だ?」
「Territoryを辞める」
「AREA潜入の話は?」
「やめとく」
「・・・そうか」
「銀次郎さんによろしく言っといて」
「自分で言え」

ははっ
そりゃそうだね。
銀次郎さんはなんて言うかな。
自分で決めたことだ・・・。
とかかな。
手鉋引く手も止めずに言うんだろうな。
舞、お前は太陽だからな。
健一を頼むぞ。
ごめん銀さん、私この人を守れなかったよ。
結局、守らせてもらえなかった。

「気になる奴がいてさ」
「・・・・」
勘のいい男。
これですべて分かっただろう。

麻布家具の一件。

これでTerritoryは麻布ニュータワーに食い込むことが出来る。今後の収益は莫大なものとなるだろう。その代わりに私は一つの家族を滅茶苦茶にした。それはそれでいい。弱いものは食われる。甘い者は潰される。あなたは決して間違ってはいない。でもね、今、ちょっとした夢を見てね、なんか、まるで潮が引くように自然にね、思ったの。もうそろそろ私は舞台を降りて、誰かのセリフじゃない、自分自身の言葉を話す時が来たんじゃないかって。そうだね。その自信を与えてくれたのはあなたよ。ありがとう。本当はあなたの下で自分の世界を作りたかったのよ。それができたらどんなに素敵だったろう。

『朝倉ぁ、おめえ、まじで気持ち悪いぜ?他人のセリフみてーに、物事を話すんじゃねえ。てめーの言葉で話せよ。そうじゃねーと誰もお前を見てくれねーぞ』

見てて、見ててよ。絶対目を閉じないでよっ!!

「ねえ、健一さん」
「ああ」
「聞いてるの?」
「ああ」
「泣かないでよね?」

フフッと笑って、
朝倉舞は武藤健一を見上げた。
武藤はスッと目を外した。
窓の外に顔を向けた。

ホントに?
まさかね。

『いつかあなたの言っていた楽園
私は一人で探しに行くわ
その先で私はまた誰かを愛し
子供を育てることでしょう
でもどうぞご心配なさらずに
だって私は・・・』

「ねえ」
「なんだ?」

『いつもあなたと共にいるから』

「心はずっとあなたと共にいるからね」





微かな
微かな
生きる音





photo:
アンナカレニナ/キーラ ライトレイ

2015年6月17日水曜日

東京インテリアショップ物語 番外編 「畳の目」後編


若き天才、石田春吉率いるインテリアショップCOREの一代勃興史「東京インテリアショップ物語」のサブエピソード。後に春吉の右腕となる悪魔の会計士こと武田仁成の若き苦悩

前回まで

中学生で父親を失くし、数々の不幸の反動から人の心を捨て、若くして金融の世界を極めた仁成。東大を卒業後、東京三菱銀行にキャリア入社。最初の担当である潰れかけの家具屋「麻布家具」の一人娘涼子に過去の自分を重ねた仁成はその再建計画に乗り出すが。



sub-episode2
「畳の目」
後編


3章


僕は・・・。
灰色の廊下にいた。
目の前には玄関ドア。
その向こう。
外には、
きっとあの人が立っている。
僕を呼んでいる。
後ろは振り向かない。
なぜって。
あの部屋があるからだ。
中学のころからつい最近まで、
僕を閉じ込めていた
明かりの入らない
あの畳の部屋があるからだ。

壇上で武藤健一が話している。湯島。東京家具連盟会館の3階。席は30席ほど。講演を聞く人たちは東京都下の家具屋オーナーたちだ。

武藤健一。
大柄な体躯を揺すりながら静かな口調で話している。低くよく通る声。眠そうな目。太い首に太いネクタイ。パンパンに膨れ上がったグレースーツの胸。その上の誠実な表情。会社設立からたった七年で10億の壁を突破した男。

僕は一言も聞き漏らすまいとノートに彼の言葉すべてを書き起こしている。その手が止まった。横の涼子さんも食い入るように聞いている。

「もう一度言います。傾向的に言えば、メーカーから仕入れている家具屋が、今苦しんでいるのです」

販売店がメーカーからモノを仕入れないで、何を売れというのだ?

僕は心の中で混乱した。

壇上の大男は、僕のその心の問いを見透かしたように答えた。

「販売店が自ら作るのです。今、全国の家具販売店が潰れかけている理由、それは、そもそも、仕入先である家具メーカー自体が、出口の見えないトンネルにいるからに他ならない。昨今の価値観の多様化の中で、特に小規模メーカーの彼らは、もはや何を作っていいのか、わからなくなってしまったのです。しかし、逆に言えばこれはチャンスです。そのようなメーカーと手を組み、OEMで自社オリジナルを作ってもらうのです。小さいメーカーと小さい販売店の同等な立場における二人三脚。それが・・・」

武藤健一が語気を強めてデスクをトンッと叩いた。

「ファブレスです」

なるほど、ファブレスか。ちょっと前から支店で良く聞くキーワードだ。マーケットの嗜好は日々そこに相対している販売店が一番良く知っている。そこから始まるデザイン、設計、価格設定など、組み立て製作以外の全てのパートを販売店主導で行い、製作のみをメーカーに任せる。販売店は自社商品オリジナルとして出来上がったその家具を自らが販売するのだ。

僕は手帳にペンを走らせた。

Territory、武藤健一、ファブレス。

そうか。
神宮前のTerritory、外苑前のAREA、南青山のTime & Style。この3ブランドはどことなく似ていると僕が直感した理由が分かった。このブランドたちは皆ファブレス形態だったのだ。工場を持たないメーカー。次代のメーカー形態。ここ数ヶ月で調べ尽くした記憶のノートを開く。そのカテゴリーで言えば、この形態は30年ほど前から存在していたはずだ。吉祥寺のSERVE、代官山のZERO-FIRST DESIGN、南青山の旧IDEE・・・枚挙にいとまがない。アパレルで言うとどこだ?GAPは?SPAだな。ファブレスならZARA、H&Mか。

ZARA?H&M?
そこに違和感を感じた。

場は質問のコーナーに移っていた。
一通り静まった後、僕は手を上げた。

「はい、えーとあなたは確か麻布家具の・・・あ、忘れてた。皆さんにご紹介致します。今回初参加、麻布家具の武市涼子社長です」

司会進行役の丸彦家具の小暮社長が気を使ってくれた。涼子さんが席を立って周囲にお辞儀をする。まばらな拍手が起きた。

「えー。で、横のひょろっとしたその人が・・・東京三菱銀行の武田仁成さんです・・・ね、あってます?はい。では、ご質問をどうぞ」

全員の視線が僕に集まった。武藤健一がニコニコとした笑顔を僕に向けた。

「小暮社長、ご紹介ありがとうございます。そして武藤社長、今日は有意義なご講演をありがとうございました。で、えー、質問ですが・・・。武藤社長の仰ったファブレスはアパレルの前例を見ると大量生産大量消費ベースでこそ威力を発揮する形態であると記憶しております。10億企業の規模では、セレクト商品を効果的に用いないと、ちょっと危険なのではないでしょうか。過去、U.アローズは一時そのバランスを誤って、大きく業績を落としたと聞きます。その点をお伺いさせてください」

場の空気がシンとした。
突っ込み過ぎたか?
僕は壇上の武藤健一に目を戻した。

武藤健一は眠そうな目をさらに細めて僕を凝視している。
やがて、口を開いた。

「あなた。よく勉強されていますね。当社の売上高まで調べてこの場にいらっしゃるとは。ふむ。ではご質問にお答えします・・・」

その後の懇親会。
武藤健一は僕と涼子さんの隣に来るとニコニコとしながら言った。

「麻布家具もこんな優秀な銀行マンがついていると安心ですね」

涼子さんがあわててメモと手帳を取り出した。間近で見ると余計この男の存在感を感じた。その頼もしさに僕はその後もいろいろと相談を持ちかけた。

「なるほど、確かにあなたの言う通りそれは戦略的に素晴らしい立地です。麻布家具ですか。ぜひがんばって下さい」

太くて大きくて分厚い手を指しだしてきた。僕は夢中でその右手を握った。

「ありがとうございます。ぜひ今後ともご指導ください」

翌日。
僕と涼子さんは麻布家具の入り口のガラスに求人情報のチラシを貼った。「ネットの募集もいいですけどね、お店の求人はやっぱり店舗に訪れた人にアピールしたい。それで来てくれた人は結局長続きしますしね」と武藤健一に教えられたからだ。結果はてきめんだった。早速一人の女性が面接に訪れた。大統領がその履歴書を見て唸った。朝倉舞。26歳。大手アパレルのショップ店長。社長賞3回。

「なんでこんな優秀な美人がウチに?」
「近所に住んでいてインテリアに興味があるそうです。大手より小さい会社の方がより全般を学べるって言ってましたね」

と僕は言った。涼子さんも嬉しそうだった。そんなもんかな・・・大統領は首を傾げた。

大統領の心配をよそに、朝倉舞は爆発的に家具を売り始めた。

「接客は得意なんです。お洋服も家具もコツはいっしょみたいで良かったです」

みるみる月の売上げが上がって行く。彼女は高価な家具しか売らなかった。インポートの高級家具がどんどん売れて行った。客単価が通常の4倍に膨れ上がった。粗利が10ポイントアップした。僕は彼女の接客を感嘆して見つめた。パーカーにスキニーパンツ。髪は後ろに一本縛り。素朴な格好をしていても彼女には、どこか匂い立つ気品があった。販売をするために生まれてきたような人だ。思わぬ援軍に涼子さんも張り切った。僕の作った販管費改造計画の庶務。ファブレス系高級家具店を目指すためのオリジナル家具のデザインの作成。まず彼女はTVボードの設計図面を完成させた。僕と朝倉舞は交互にその図面を回し見した。「オリジナルですね、うんかっこいい。売れますよこれは!!」朝倉舞が手を叩いて喜んだ。「もっと作って下さい。振り込みとか、雑多な庶務全般は私がやりますから、もっともっとステキなオリジナルを作って下さい!!」僕と涼子さんは目を見合わせて頷いた。行ける。この会社はもっと伸びるぞ。

そう。
すべてが夢のように順調だった。
半年が立ち、会社のV字回復を示す半期諸表を確認した。

メドが立ったな。

僕はようやく肩から力を抜いた。

12月。
支店会議から自分の席に戻る。携帯に涼子さんからの着信が4件も入っていた。電話をしようとして、ふとデスクに目を落とす。

その紙は何の前触れもなく僕のデスクの上に置かれていた。

「異動命令書?」

なんだこれは・・・。
神奈川?本牧に異動だと?

本牧と言えば同期の仁科達夫の所だ。
周りを見回した。高田先輩は外回りに出ているようだった。

心臓が嫌な音で大きな鼓動を立て始めた。

震える手。
携帯で仁科を呼び出した。

「ああ。俺も今朝聞いた。今その前後関係を調べていたところだ」

仁科の声も動揺していた。いつも以上に早口になっていた。

「こんな時期の人事なんて聞いたこともないぞ」

仁科が沈黙した。

「なんだ?仁科、お前なんか知ってるのか?」
「武田・・・落ち着け」

落ち着け?落ち着けだと?僕はキャリアだったんじゃないのか?こんな動きは過去に聞いたことがない。

「俺はこれは上層部の派閥争いだと思う」

東大と慶應。
確かにそれはもともと昔からあるウチの暗部の歴史だ。いや、今ではマスコミも一般人も誰もが知っている。しかしそれは伝説としてだ。信憑性としては都市伝説並みの話だった。

まさか・・。

「仁科・・お前確か・・」
「ああ慶應だ。今回の人事な、俺とお前の入れ替えなんだ」


その5分後。
僕は営業自転車で外苑西通りを走っていた。仁科達夫の声を頭の中で反芻する。

いいか、仁成、よく聞けよ。思うにウチの会社はお前がキャリアにふさわしいかどうかテストしていたんだと思う。お前、社員研修の時言ってたろ、中学の時の話。そう、お前の親父の貸し剥がしの話だ。その人格影響が今も残ってるか試されたんだよ。麻布の家具屋がどうとか言っていたな。お前その初担当に入れこんでただろ?たぶん、いや・・・絶対それだ。お前はキャリア失格と見なされたんだよ。俺?知らねーよ。俺にそんな手引きができるわけないだろう?それはお門違いだぜ?俺もさっき知ったんだ。自分でよく考えろ。筋で言えば大抵こういうのは直属の先輩がガイド役だぜ?

あとな・・・さっきから調べていてもう一つ気になることがある。

青山墓地の狭い道で車にぶつかりそうになった。派手なクラクションを鳴らされた。雨が降ってきた。向かってくる雨粒に何度も目をこすった。涼子さん・・・くそ。狂ったようなスピードで自転車を走らせた。

お前、武藤健一という男を知っているか?そいつは島津財閥の血筋だ。ウチの会社と島津の関係は知ってるな?そうだ。島津はうちの大株主だ。最近ウチの上層部と武藤健一が一緒にいる所をこっちの支店長が見ている。ああ。丸の内の本社でだ。どういう意味だ、だと?馬鹿。お前が入れこんでるその家具屋の立地はウチの会社主導の大規模再開発区域のど真ん中じゃないか。管轄はウチの不動産部門だが、基本的に裏では表参道支店が主体なんだろ?え?・・・知らない?一週間前の決定事項だぞ。俺はこの話を支店長から聞いた。なぜお前が知らないんだ。本牧の俺が知っていて地域担当のお前がなぜ知らない?ウチの上層部と武藤健一は何を狙っているんだ?

外苑西の交差点を渡り、ホブソンの脇の小道に入る。森ビルの虎ノ門ヒルズの対抗措置?麻布ニュータワー計画?知らない。聞いていない。

武藤健一は何を狙っているだと?そんなのは明白だ。僕は漏れ出しそうな嗚咽をようやく飲み込んだ。それでもウッウッと声が漏れる。分かってる。再開発予定地域のど真ん中にある個人ビルの買い取り。後に転売する目的の間接的な地上げだ。当然、上場企業はそんな危ない橋は渡れない。奴はワンオーナーの中小企業の立場を利用してこの大事業、この途方もなく甘い果実に吸い付く気だ。島津系だと?バックグラウンドは?ウチの誰だ?誰とつながってる?絵を描いているのは誰だ?慶應の誰だ?くそっ。

麻布家具のドアを開いた。

涼子さんと大統領が奥のテーブルに座っていた。

涼子さんがずぶぬれの僕をちらりと見て、また下を向いた。

テーブルの上。一括返済書。財産・抵当差し押え書。そして辞表。

辞表?
朝倉舞か?
なぜだ?

「たった一日で何から何まで取られちゃったよ」

大統領が小さくか細い声で言った。


一括返済の根拠。
一時間前の高田先輩からの電話。いやあ、ウチの仁成がお世話になっているようだけど、こう返済が遅れちゃったら僕もどうしようもないというか・・ねえ。涼子さんが慌てて調べた経理帳簿。4ヶ月振込みの形跡がなかった。ドクンと僕の心臓が跳ね上がった。『振り込みとか庶務全般は私がやりますから、もっともっとステキなオリジナルを作って下さい!!』なぜだ?なぜ朝倉舞は4ヶ月も支払いを怠った?そしてその事実がなぜ担当の僕の耳に入らなかった? …いずれにせよ、このビルは無条件に競売にかけられる。出来レースの競売だ。このビルを落とすのはもちろん武藤健一。奴だ。この半年、いくら業績が良かったとはいえ、麻布家具に一括返済の目処などあるはずがない。僕だ。僕が他の銀行をウチにまとめ直した。僕がこの荒事を可能にしたようなものだ。僕はデスクの上の書類を掴んだ。せめて、せめて、このビルの販売額で充当を・・・。あせって書類をめくる。これだっ。書類の一枚を抜き取る。

「え?」

整然と並ぶ数字に愕然とした。手からその紙がひらりと落ちた。なんだこの評価額は。僕の認識している査定額の70%にも満たないじゃないか。査定は誰が?ウチのグループ?僕はすべての書類に目を通した。気持ちが悪いほどに合法的な手段だった。これじゃ裁判をしようにも、いや・・・しかし。「裁判です。それしか方法が・・・」大統領が首を振った。「ウチにはそんな金はないよ」「そんな金、家具を売って少しづつでも・・・」大統領がまた首を振った。「どうやって売る?この家具を誰がどうやって売るんだい?」あ・・・。高級家具に一変した店内。それを唯一売りこなせる、頼りの朝倉舞はもういない。そ、そうだ、そうだよ、彼女は?「舞ちゃんはどうして辞めたんです?振込忘れてたから?今からでももう一度説得して・・・いや、彼女に頼らなくても、まだ笠間建設の売上げもあるし、なんとか・・・」最近オリジナルが売れて来て圧縮されたとはいえ、麻布家具の5割の売上げシェア、笠間建設の売り上げがある。笠間建設がいればここはそうそう潰れないんだ。僕の言葉に涼子さんがテーブルに突っ伏して子供のように泣き始めた。僕の体がギュウッと縮んだ。なんだ?僕はなにかおかしなことを言ったか?大統領がポツリポツリ話し始めた。突然の電話。笠間建設の息子からの電話。御社とのお付き合いを終わらせたいと一方的にまくしたてた。詰め寄る大統領。とうとう息子の本音が飛び出した。いやあ、お宅の朝倉舞ちゃんを気に入っちゃってねぇ。あ、僕の嫁にどうかってね。聞いたら悪い感じじゃなさそうだったんだよ。でね、彼女今度、お宅辞めてテリトリーに再就職するっていうじゃない?あそこはクオリティ高いし、社長の武藤健一さんも親父を説得してくれちゃってさ。親父ももうその気なわけ。まあそういうわけだから」

再就職だと?
テリトリーに?
再・・・。

『なるほど、確かにあなたの言う通りそれは戦略的に素晴らしい立地です。ぜひがんばって下さい』

「あああ・・・」

すべてがつながった。
全部の線が結束する場所。
複数の伏線が示す場所。

低くよく通る声。
眠そうな目。
太い首に太いネクタイ。
パンパンに膨れ上がったグレースーツの胸。
その上の誠実な表情。

「武藤健一・・・」

僕はあの時、熱に浮かされたように僕の戦略すべてを話してしまった。武藤健一は再開発計画は知っていても、麻布家具に関しても、麻布家具の自社ビルのことも、何も知らなかったはずだ。あの時、あの夜、奴の脳で、その二つがつながった。そして翌日、早速、朝倉舞をここに送り込んできた。

その媒介を演じたのは、
またもや…。
僕だった。

差し出した手。
太くて大きくて分厚いあの手。僕はあの時、あの巨大な手に、邪悪な蜘蛛の巣に、見事に捕まったのだ。

なんという人間だ。
なんという悪辣だ。

僕は崩壊寸前の心で涼子さんを見上げた。あの優しい目で救って欲しかった。しかし、その時僕は見た。

僕を見下ろす彼女の目の中の憎悪を。

形容しがたい程の恐ろしい光りを。

「うわあ・・・」

僕は床に尻餅をついた。
彼女の憎悪が追ってきた。
目を離してくれなかった。
そして、

「うああああうううああー」

ついに口の聞けない涼子さんが口をきいた。

「ううああああああっっっっっあっあー」

僕は尻餅をついたまま頭をかばうようにして後退った。そして、やにわに立ち上がり、その場を逃げ出した。

そうして、僕はすべてを失った。


4章


無精髭と風呂に入っていない体。
ベトついた右手には刃渡り10cmのナイフ。

あの日から3日が経った。

会社を休み、引きこもるマンションの自室で、見知らぬ番号から着信を受けた。通話ボタンを押し、黙っていると低い声が言った。

「武藤だ。聞いているか、武田仁成?一度しか言わないからよく聞け。お前はウチに来い。いいか?お前は見所がある。俺が仕込んでやる。明日のam7:00にウチの店に来い。いいな」

通話を切った。意味が分からなかった。なぜ僕がお前の所に行くんだ?殺しに行くならわかるけどな。殺す?俺が武藤を?まあそれもいいな。俺はこういうものを持ってるしな。あいつの顔にこいつを指してやったらどんなに気持ちがいいだろうな。そうぶつぶつ言いながら、一睡もせずに、僕はこうして朝を待っている。やがて日がのぼり、僕は腰を上げた。外に出た。雨が降っていた。田園都市線は今日も人で溢れていた。人々は僕を避けて通った。僕は表参道をふらふらと歩いた。そして目的地、テリトリーの直営店に到着した。

am6:40。

向こうの道から大男が歩いてきた。
一人だった。


僕は灰色の廊下にいた。
玄関のドアにはいつの間にか
外からカギがかかっていた。
その向こう。
青空の下で僕を待っていたはずの
あの人はもういない。
僕は後ろを振り向いた。
例の扉があった。
中学の時からずっとこもっていた、
明かりのない畳の部屋だ。
僕は長い間そこで、
畳の目を数えて過ごした。
もうあそこには戻りたくなかった。
でも。
やっぱり。
僕の居場所は最初から・・・。
ここだったのかもしれないな。







遠く道の向こうから
大男が姿を現した。
僕はかばんの中のアレを握った。
テリトリー前の植え込みに隠れて
その時を待った。






ギギギギィィ。
無明の部屋の扉が
独りでに開いた。
その隙間から、
部屋の畳が見えた。
横たわる親父の足が見えた。
窓の外のアジサイの碧が…
見えた。
僕はゆっくりとその部屋に
戻ろうとした。




かばんからアレを取り出した。
奴を懲らしめる為のあれだ。



扉のノブに手をかけた。
とうさん・・・・。
僕はだめだったよ。
けっこうがんばったんだけどな。




その時。
後ろから襟首を掴まれた。
僕は、ものすごい強い力で後ろに投げ飛ばされた。右手のナイフを握る手を蹴飛ばされた。

「てめえっっ!!」

引き起こされた。頭突きをされた。プキッと僕の鼻が鳴った。そのまま裏道に引きずり込まれた。

くそっ僕は奴を!
武藤を・・・!

もがいた。
離せっ
くそっ!

そいつが僕のナイフを拾った。そしてそれを遠くの植え込みに投げた。小さい男だった。小さいが全身から電気のようなオーラを放っている。そいつが僕に近づいてくる。やにわに僕の両耳を掴んだ。

ゴンッ。

額に額を打ち付けられた。そして言った。

「武田仁成ぇ、遅くなってワリイな」

鼻と鼻がふれあう距離でそいつが言った。歯を食いしばったそいつの口から獣じみた呼気が漏れた。

「見えるか?仁成?俺が見えるか?」

デカい口がニイイイイっと笑いの形になった。

「その穴ぐらに戻っちゃいけねー。もう二度とそこには戻るな」
「石田・・・・はるきち?」

春吉がようやく僕の両耳を離した。

「俺とお前は同類だ。その穴ぐらは俺もよーく知ってる。武田仁成、お前は俺と来い!! わかったか?わかったな!?」

その時、僕の中で何かが弾けた。畳の部屋の扉がバンッと音を立てて閉まった。親父の足が、畳が、アジサイがかき消えた。僕は、いや・・僕の無意識が勝手に・・。

頷いた。

そして、その意味に意識が後から追いついた。再び僕は大きく頷いた。

「はるきちっ」

僕は絶叫を上げた。いやだ。僕はもうあの部屋に戻りたくない。

「僕を・・いや俺を・・・」

ぜったい嫌なんだ。畳みの目を数えて過ごすのは。もう二度とごめんだ。

「頼む」

俺をあの玄関の外へ連れてってくれ。

「俺を・・・頼む」

春吉が太い呼気を吐いた。
「ハッ」
そして俺の目を真正面から見て言った。

「まかしとけ!!」


あきらめていた玄関ドアが、
開いた。
いや、無理矢理ぶち破られた。
ドアの向こうには、
青空はなかった。
冷えびえとした荒涼が、
ただ永遠と、
広がっているだけだった。
しかしそこには・・・。
春吉というチビが立っていた。


また襟首を掴まれた。
再び表通りに引きずり出された。
春吉に肩を組まれた。
春吉が道の向こうの大男にデカい声をかけた。

「武藤!!」

武藤健一の足がピタリと止まった。

「仁成は俺がもらったぜ!!」

俺の肩に乗る春吉の太い腕の重み。

「俺はお前のやり方は気に入らねえ」

なんて心地のいい重みなんだろう。

「首を洗って待っていやがれっ」




エピローグ

トンボが飛んでいる。
腹が赤い。
秋茜か。
こんな東京のど真ん中でもトンボが飛ぶんだな。
しかし俺の胸にそれ以上の感慨はない。

「アキラさん辞めたんですか?」
「ああ」
「そうですか」
「お前の計算に支障が出るか?」
「いえ。別に」

向こうから女が歩いてきた。

「お待たせしました石田社長」

横の俺を見てその女がフッと笑った。

「あら、久しぶり。何か雰囲気変わったわね」

朝倉舞。

しかし俺の心はもう動かない。
俺の心は冷えびえとした荒涼にある。
あの頃の俺はもういない。
俺の昏い目に朝倉舞が少したじろいだように見えた。

「で?どうする?うちに来るか?」
春吉が言った。
「お受けします」
そう答えて、
朝倉舞は艶然と笑った。