AREA[エリア]POLIS[ポリス]SOFAS[ソファーズ]roche bobois[ロッシュボボア]などのインテリアブランドを展開するCROWN Co.の代表(野田豪)が日々考えるインテリア業界のあれこれや私小説をお届けします。
2015年8月25日火曜日
アーツ・アンド・クラフツの教え
19世紀のイギリス、ヴィクトリア朝時代。
そのイギリス帝国の絶頂期にウィリアム・モリスという男がいた。彼の肩書きは詩人、思想家、インテリアデザイナーであった。
言わずと知れた「アーツ・アンド・クラフツ運動」の主導者である。
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「確かにの、産業革命は人に便利を与えた。だがの・・ジェーン(妻)、こいつはどうだ?」
モリスが手近の椅子を蹴っ飛ばす。
その粗悪な大量生産品のウインザーチェアがジェーンの前でバラッと壊れた。
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「気づけば儂らの周りは大量生産の粗悪品で溢れとるの。作るは簡単、売るも簡単。大衆がこれに群がるのは分かる。だがの、儂は見ておれんの。我がイギリス帝国の民衆が粗悪に心が染まって行くのを見ているのが辛いのだ。今こそ我々はモノ作りの歴史の針を中世にまで戻さねばならんの。あの時代は生活に芸術が寄り添っていた。なあに、指針を戻しても、それは退化とは違う。中世の美を現代の技術で生み直すのだ。それは後に世界中に大きな進化を生むであろう。」
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果たして。
モリスの「Arts & Crafts」という民芸運動は世界中に広がって行く。その思想はアール・ヌーヴォーを産み、アール・デコの呼び水となり、世界のインテリアを一変させて行く。
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世紀は代わる。
20世紀、イギリスから遥か遠い極東の島国で、民藝運動家、柳宗悦(やなぎ むねよし)の長男、柳宗理(やなぎ そうり)が生まれる。彼は日用品の中に「用の美」を紡ぎ、日本版アーツ&クラフツを継承して行く。
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モリスは言った。
「生活には美が寄り添わなければならんのだ。高価を怖がってはいかんのだ。そう儂は確信しているのだ !!」
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モリスの製品は結局高価すぎて、好んで使ったのは富裕層だけだった、という批判もある。
しかし、僕は思う。
当時のイギリスと現在の日本はとても似通っている。産業革命で各国をリードしていたイギリスが近隣諸国のフランス、ドイツに猛追随されていたあの時代は、その単語を明治維新、韓国、中国に変えれば、現在の日本を取り巻く状況として違和感無く理解できる。
このまま安価な粗悪品を追求してライバル国と量の競争をして行くのか?
僕らの回答は「否」である。
僕らもまた確信しているのだ。
「生活には、人の心には、上質が必要なのだ。そのキーワードは、今もなお変わらず、アートとクラフトなのである」と。
2015年8月24日月曜日
日本の社長の平均年齢
この前、知り合いに「野田さんって最近、歳を聞かれると、もうすぐ50歳って答えてますよね」と言われました。「50歳を楽しみにしてるんですか?」と。
そっか。
自分でも意識してなかったな。
でも・・
はい。
その通りなのです。
45歳を越えた辺りから50歳が楽しみで仕方ないのです。
というのも、しばらく前に、日本の会社の社長さんの平均年齢を知りました。
60.6歳だそうです。
(東京商工リサーチ調べ*2014)
ちなみに、統計では70代以上の社長の比率がグングン上がり、30代以下がガク減りしているそうです。ここも分析してみたいポイントですね。
まあ、それはさておき、僕は考えました。
最近薄々分かって来たことなのですが、50を越えてこないと出来ない仕事ってのがある。それはキャリアや個人能力とは必ずしも関係のない類いの仕事です。
とにかく、一世一代の勝負は60代の自分に譲るとして、50代では爆発的な仕事の開花を見せて、当社をトップグループに食い込ませないと。(僕らが考えるトップグループはA社とC社です)
その時までの舞台作りとして、これやっといて、あれやっつけて・・とか。状況的に今は我慢しているけど、その時が来たら、これやって、あれやって・・とか。
そんなことを考えると50代が楽しみで仕方なくなるわけなのです。
そんなわけで、みなさん。
男も女も仕事なんて50代からですよ。
先は長いから、張り切って行きましょうね !!
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[ photo ]
AREA Book-Board (Living) Table
CD、単行本、文芸書、雑誌の定型から逆算してセルを仕切ったリビングテーブルです。
http://www.area-japan.co.jp
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2015年8月23日日曜日
家具屋の労働分配率
労働分配率ってご存知ですか?
経理会計の方や、社長さんは分かりますよね。
会社が決める人件費の決定方法の一つです。
計算式は
労働分配率(%)=人件費/付加価値額
(付加価値額=売上総利益(粗利))
簡単ですね。
その労働分配率。
日本企業の平均は大体70%と言われています。
粗利に対する人件費の割合が70%ということです。
もちろん、職種によって経費構造はバラバラです。
人的サービス業は比率は高くなるし、仕入れの生じる小売業は当然低くなります。
さて、そこを踏まえて我々家具屋の労働分配率ですが
ある会計ソフト会社のデータによると・・・。
46.8%
(小売業の中でもほぼ最下位に近い)
となっています。
このデータにおける家具屋の平均売上高は206.141(千)です。一般的な傾向としては、この約2億という数字が大きくなると、効率圧縮で労働分配率は低くなるし、小さくなると高くなります。定点観測を踏まえて微分計算を用いれば逓増減の割合も予測できますが、ウチの売上高でこの給料だと、もしかしたら割にあわないんじゃないか?・・・とか、会社によっては暴動が起きる可能性があるので、ここでは割愛します。実際の会計結果は本当に複雑で一概には言えませんし・・・。
何度も言うようですが、これは黒字会社の人件費決定方法の中の、あくまで一つの指標ですので、参考程度にしてください。結局大事になるのは、売上総利益(粗利)を上げることが肝心(利益率を上げれば労働分配率は下がる)なのですからね。
全国家具屋の70%が赤字会社(土地や所有株などの営業外資産を抜くと90%以上)言われていますが、その場合は、目を向ける所が他にあると思います。
それでも、日本の家具屋は未だに鉛筆ペロペロ(心象オンリー)で社員の給料決定している所が多いのは事実。大事な社員の生活がかかっていますから、会計戦略はしっかりしていきたいところですよね。
ちなみに、他業種は
人材派遣業 62.4%
美容室 54.3%
訪問介護 65.5%
コンビニ 11.1%
家電販売 56.2%
アパレル 44.3%
だそうです。
2015年8月22日土曜日
業界の世代範囲 (ショートエッセイ)
とある30代の経営者と飲んでいる時、相手の社長さんが「まず野田さんの世代にがんばってもらって次は僕らの世代の出番ですよ」と言った。
うーん。
僕は考える。
ここで彼に教えるべきかどうか。
君は「世代」というものを10年ごとに区別しているようだけど、30代40代50代は同学年だ。その世代がそれぞれ50代60代70代になっても同世代でライバルなんだよ。つまり、現在30代の君に取って、40代の僕はおろか50代、下手したら60代の人たちだって、君のビジネスに一生涯関わってくる。最低でも30年一世代、そう考えて業界の人たちとお付き合いした方がいいね。
でも言わなかった。
なんでかな。
教えてあげるほど近い人じゃなかっ
たからかな。
大人の経営者は怖いよ。
そういう取捨選択を常にしているから。
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[ photo ]
AREA バルコニーサービス model .1
2015年8月21日金曜日
日本の家具デザイン (短文)
歳を取るにつれ、日本のデザインをしたくなってくる。入道雲とか梅の枝を見ると、その造形のエッセンスを抜き出して椅子を作りたくなるのだ。
今年の秋の新作群は円柱をテーマにしているのだが、そんなわけで、描けば描くほど、その円柱が竹に見えてきてならない。線を引くたび、節を描く欲求に駆られる。ここに節を表現するならどのような刃物でどのように削るか?
そんな妄想を我慢してまっすぐ線を引く夏の夕暮れなのである。
豪
2015年8月2日日曜日
刃鳴り 4 (最終章) 「日本一」
若き天才、石田春吉率いる
インテリアショップCOREの一代勃興史
「東京インテリアショップ物語」番外編 5
[ 稀代の削り師 武藤銀次郎 ]
sub-episode 5
「刃鳴り」
4
最終章
最終章
「日本一」
刃が鳴り始めた。
しばらく手の中の鉋(カンナ)を見つめていた銀次郎がふと顔を上げた。
開け放しの木戸。
その向こうを見る。
その向こうを見る。
外は細かい雨が降っている。
その恵みに打たれて、新緑は色鮮やかに濡れているはずだ。
儂の目はもうほとんど見えない。
この数日、何も口に出来ていない。
この数日、何も口に出来ていない。
わき立つ山の匂い。
遠くに渓流のせせらぎ。
***************************
格子の隙間で欅(けやき)の緑が揺れている。油蝉の合唱がふと止まり、代わりに涼やかな風が舞い込んで来た。木工所の床板がひんやりした温度を素足に運んでいる。皆が出社する前の静かな時間だ。
「どうしても行ってしまうのですか?」
善次郎が下唇を噛んでうつむいている。
「ああ」
「詩織さんも望んでませんよ、こんな・・・」
「ああ」
「世間の口もすぐに収まります。あの分からず屋の社長だってちゃんと説得すればきっと分かってくれますよ」
皇族出席という話題もあり、名匠展のニュースはTVや新聞各紙で大々的に取り上げられた。一晩で伊藤銀次郎の名前は全国に広まった。日本の若き名匠の台頭。それは復興のシンボルとして打ってつけの素材であった。ところが、その影で、ある大衆雑誌がひっそりと死んだ詩織の記事を掲載した。その情報は瞬く間に広がった。あとは負の連鎖だ。「妻殺し、鬼の名匠」最後は、カストリ雑誌までが俺と詩織のあることないことを書きなぐった。ご丁寧に妻の生き血をすする鬼の挿絵付きだった。一転、世間の風評が俺に牙をむいた。俺はあっという間に悪の烙印を押された。鬼、人でなし、人非人という文字が見出しに踊った。一度そのような火がついたらもう止まらない。その後はひどいものだった。木工所には連日記者たちが詰めかけた。誰ともわからない者が、夜中のうちに、製作小屋のガラスをすべて叩き割った。しばらくして会社から社長命令が下った。武藤銀次郎は辞表を出せ、と。当然の判断だった。
しかし・・・。
「そんなことはどうでもいい」
「じゃあ何故なのです?」
詩織の葬儀は旭川で行われた。喪主は師匠だった。俺は出席しなかった。健一はそのまま旭川にとどまった。葬儀のその日、俺は一日中、粉々になったあの椅子の破片を見つめていたのだ。俺は幽霊の残骸をただひたすら見つめていた。なぜ、こんなものを作ってしまったのかまったく分からなかった。今でも分からない。分かっているのはたった一つ。
俺にはもう椅子は削れない。ただそれだけであった。儂のがらんどうの心に、それだけがたった一つコロンと転がった。
「俺は・・・もうダメだ」
「ちがうっ」
善次郎が自分の頭を手で押さえて言った。
「銀さんはすごいよ、あんたはすごい。誰が認めなくてもあしだけは一番それを知ってる。それじゃダメですか?ダメなのですか?」
油蝉が再び勢いを取り戻した。
俺は布袋を掴むと立ち上がった。
「銀さんっ !! 」
「じゃあな、善次郎」
善次郎が震えている。
俺は歩き出した。
「銀さん、そんならあしも辞めるぞっ。木工を辞める。けど、あしは・・・あしはあんたのようには逃げないぞ。社長になってやる。この会社の社長になって、それで・・・それで銀さんを連れ戻すんだ」
善・・・違うんだ。
そういうことではないのだ。
儂は入り口の木戸をくぐった。
蝉の夏に包まれた。
大きな入道雲が品川の方角に湧いていた。
背中で善次郎が泣きながら叫んでいた。
「銀さん、カンナは・・カンナだけは捨てないで下さいよ。あと・・あとは・・カンナはそこら辺に転がしちゃあダメですよ。作品が終わったらちゃんと蹲踞(そんきょ)ですよっ。棚に立てかけて礼をして終うんですよっ」
*************************
蜃気楼の向こう。
バス停に会津下駄の男が立っていた。
「よお」
白い開衿シャツの前を開けて中の見事な入墨を晒している。不機嫌そうな顔の裏にどこかもの悲しい色が宿っていた。
三島新一だった。
「やはりそういうことになるのかよ」
「・・・」
「ケッ」
三島新一が紙片をホレと突き出した。
「小田原の空き家だ。俺が芝(会社)から譲ってもらった小さな庵だが・・・」
吐き捨てるように言った。
「お前にやる」
無言で受け取った。
「いずれ戻って来い。お前みたいのがいないと張り合いがなくていかん」
白いシャツが背中を向けた。
俺は、しばらくの間その紙片を手で弄っていたが、やがてそれをポケットに入れた。
土埃を上げて鼻付きのバスが止まった。
*****************
その後・・・。
日本全国を転転とした儂は、ある日思い立ったように三島新一から譲り受けた、小田原の庵を訪れた。草に埋もれた小さな小屋は20畳の畳間と10畳の土間しかなかった。土間の端に小さな炊事場があった。庵の下には小さな医院があった。その個人医が庵を訪れて名乗った。「武藤さん、いやあ偶然ですね、お忘れですか?奥村ですよ」かつての詩織の担当医だった。奥村が去ると、儂は無言で風呂敷を広げ木工道具を並べた。誰に乞われることも無く、ただひたすら箸を削り始めた。
*****************
ある日の朝。
一人の学生が庵に現れた。
ほれぼれするような大男だった。
その学生はのっそりと板戸をくぐると、奥で箸を削る儂を見据えて行った。
「墜ちたものだな」
細く眠そうな目がさらに細められた。
健一・・・。
儂の足に絡み付いて来た幼子の面影は一つもなかったが、まぎれもなく健一だった。胸の奥の熾火が揺らめいた。
やがて、健一がボソボソした声で言った。
「父さん・・・。俺は決して父さんを許さない。あなたの言う家具を呪って生きてやる。呪うために・・・俺は家具をやることにした」
儂は何も言わなかった。
口が開かなかった。
開いたとたんに儂を儂として保っている根本が壊れてしまいそうだったからだ。本当は駆け出して抱きしめたかった。地に額を擦り付けて、一万回でも謝りたかった。儂のせいで、ずっと苦しかったろう、つらかったろう。それを押し退けて、よう大人になった。ようここまで大きくなったと抱きしめたかった。しかし、どんな筋があって儂にそれが出来ようか。儂にそんな権利は一粒もないのだ。
「それで善かろう」
とだけ言った。
健一が太く息を吸い込んだ。しばらく息を詰め、儂を睨み、そして静かにそれを吐いた。
「それだけを言いに来た」
健一がのっそりと出て行った。
**************
ある日の朝。
高級スーツに身を包んだ小男が黒塗りのクラウンに乗って現れた。
「・・・・」
アンパンみたいな丸い顔の小男はしばらく無言で、箸を削る儂の手元を見つめていた。
その顔に涙が一筋、流れて落ちた。
夕方にさしかかった頃、その男は意を決したように自分の膝をパンと打つと、庵を出て行った。
儂は威風堂々とした善次郎の背中を無言で見送った。
**************
そして・・・。
時は流れる。
飛び矢の速度で。
それはもう、
ただひたすら、
静かに。
そして、
おごそかに。
*************
ある日の朝。
風のように一人の少女が舞い込んで来た。
涼しい目元の美しい娘だった。
「銀さんだ !! 」
訝しげな目を向ける儂に少女が言った。
「あ、朝倉です。朝倉舞ね、善爺の孫。伝説の銀さんに一度会いたかったの。おじいには内緒で来ちゃった」
善次郎の孫。
荘八の娘か。
面影がある。
「銀さん、あのね、私、天才なの」
天才?
「・・・なんの天才だ」
「販売よ。もう誰にも負けないんだから。日本一よ ! 」
日本一?
「・・・日本一何を売る」
舞がキョトンとした顔をした。
そしてケタケタと笑った。
「家具に決まってるでしょ。あたしは善次郎の孫だよ」
家具・・・日本一。
胸に疼痛が走った。
若かりし頃の苦渋が胃から逆流してきた。
「ねえ、また来るね、いいでしょ?ここ、なんか落ち着くんだ」
****************
そして・・・。
その日が来た。
石田春吉。
奴が来たのだ。
そのくそ生意気な坊主は薮から棒にこう言った。
儂にまつわる全ての事情を知った上で奴はそう言った。他人の気を知らんでモノを言う愚か者ではなかった。真逆だ。奴は、すべて知った上で覚悟を決めて厚顔無恥で素っ頓狂を振る舞える剛の者であった。
****************
**************
儂の前にシウリ桜があった。
気が遠くなる昔。
儂が火のように若かった頃。
身をよじらせて心焦がれた材が・・・。
今、目の前に転がっていた。
師匠・・・まだ生きていたか。
化けもの桜が15枚に縦割りにされて、儂の前にその身を晒している。灰紅の木色。手ですくった水を投げつけた。飛び散って濡れた所から薄桃色に染まった。覗き込んで、儂は老いた我が目を見開いた。目が細かい。いやそこではない。この組織・・・。指を置いた。材の表面をなぞる。ああ・・・。見たことのない細かい渦と、それを巻き込みうねる大きな波が、びっしりと・・・壮絶な杢を形成していた。もう一度 指し水を投げた。ああ・・・色が深い・・。桃色から紅。まだまだ変わる。これは、もう・・・深紅だ。こんな桜・・・見たこともない。
その時、
やにわにシウリの目がこちらを見た。
二つの目玉に、ぎょろりと見られた気がした。
儂は二、三歩後ろによろめいた。
ドサリとその場に尻餅を突いた。
儂にこれを削れるのか?
神話の化け物に素手で挑むようなものだ。
無理だ。
御主・・・。
アイヌの神木。
無理だ。
儂には無理だ。
文字通り刃が立たない。
『お前では足らんのだ』
かつての師匠の言葉が頭に甦った。
くそう。
老いぼれになってこんな種類の涙など流してはいけないのだ。こういう涙を流していいのは、いくらでもやり直しのきく若い者だけなのだ。
鉋をシウリの身に当てた。
サクリ。
削りの一足を入れた。
しかし、ここからが肝心だ。
いや、むしろここからなのだ。
こいつと儂の意識を重ね合わせていく、共同で産みの作業をしなくてはならない。だが、ここからは思う存分カンナを使える。それは心が湧き立つ作業だった。
『なんということだ。
俺は幽霊を作ってしまった』
一つ削って己を削ぐ。
『身寄りは銀さんでしょうが』
一つ削って愛を削ぐ
しかしどうだ?
儂の心の中に未だ皆がおるのは何故なのだ?
居るどころではない。
未だこんなにも大きく皆が居る。
削ったふりして、
削いだふりして、
結局、儂は何も捨てきれなかったのだ。
それどころか・・・。
刃が鳴っている。
刃が鳴っている。
**********************
そして、儂はシウリと2人きりになった。
世界に・・・立った2人でポツンと居る。
神木よ。
神居よ。
お前は彼の大地でどれだけ生きた?
・・・。
そうか。
これがお前の記憶か。
ここは?大風か。
辛かったろう。
ここは?寒波か。
苦しかったろう。
ここは?長い春だな。
楽しかったな。
この葉影で鳥は歌ったか?
この枝を栗鼠は走ったか?
この根股で熊が寝たのか?
ああ。ここは?
これがお前が倒れた原因だな。
悲しかったな。
くやしかったろう。
大丈夫だ。
儂が全部削り出してやる。
その想いを形にしてやる。
そして。
最後に残るものがあるはずだ。
儂の様にお前にもあるはずだ。
それを儂に見せてみろ。
どこだ?
その記憶は何処にある?
怖がるな。
儂にまかせておけ。
ああ、それとな。
一つ約束をしてくれ。
お前だけはどこにも行くな。
お前だけは儂を置いて行くな。
俺とお前の作品。
俺たちの子供ができたら一緒に行こう。
どうしたここをこんなに赤くして。
ああ、儂か。
儂の口から垂れてしまったか。
すまん。
今拭くからな。
刃が鳴っている。
刃が泣いている。
詩織よ。
我が愛よ。
儂は今、深海にいる。
蒼く昏い海底に沈んで行く。
儂はそこで一筋の光を探している。
シウリよ。
お前のどこか奥底にそれはある。
必ずあるのだ。
あとどれくらいだ?
どのくらいで見つけられる?
二日か・・一日で終わるか。
しかしここからだ。
いずれにせよ、ここから、
儂の長い旅が始まるのだ。
その感覚が徐々に短くなって行く。
おい。
ああ、銀次郎。
なぜ3本目があるのだ・・・?
ああ、旭川だ。
これは故郷の小春日の温もりだ。
あいつは目を離すとすぐどこかに隠れてしまうからなあ。
おーい。
初めて我が子を見る父のような。
そんな顔をしていた。
壁の小棚に駆け寄った。
「待ったか?」
詩織はちょっとうつむいて照れたように笑った。
「ぜんぜん待ってませんよ」
「そうか。では行くか」
「どちらに行くのですか?」
「カレーだろう?」
「あ !! 」
「中村屋に行くのだろう?」
「やった !! 」
詩織がピョンと跳ねた。
「あ、でも・・」
「どうした」
「ちょっと健一が心配です」
「本当?良かったぁ」
「さて行くか」
「はい」
「あ、そうだ銀さん」
「なんだ?」
「ちゃんと日本一になれた?」
遠くに渓流のせせらぎ。
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格子の隙間で欅(けやき)の緑が揺れている。油蝉の合唱がふと止まり、代わりに涼やかな風が舞い込んで来た。木工所の床板がひんやりした温度を素足に運んでいる。皆が出社する前の静かな時間だ。
「どうしても行ってしまうのですか?」
善次郎が下唇を噛んでうつむいている。
「ああ」
「詩織さんも望んでませんよ、こんな・・・」
「ああ」
「世間の口もすぐに収まります。あの分からず屋の社長だってちゃんと説得すればきっと分かってくれますよ」
皇族出席という話題もあり、名匠展のニュースはTVや新聞各紙で大々的に取り上げられた。一晩で伊藤銀次郎の名前は全国に広まった。日本の若き名匠の台頭。それは復興のシンボルとして打ってつけの素材であった。ところが、その影で、ある大衆雑誌がひっそりと死んだ詩織の記事を掲載した。その情報は瞬く間に広がった。あとは負の連鎖だ。「妻殺し、鬼の名匠」最後は、カストリ雑誌までが俺と詩織のあることないことを書きなぐった。ご丁寧に妻の生き血をすする鬼の挿絵付きだった。一転、世間の風評が俺に牙をむいた。俺はあっという間に悪の烙印を押された。鬼、人でなし、人非人という文字が見出しに踊った。一度そのような火がついたらもう止まらない。その後はひどいものだった。木工所には連日記者たちが詰めかけた。誰ともわからない者が、夜中のうちに、製作小屋のガラスをすべて叩き割った。しばらくして会社から社長命令が下った。武藤銀次郎は辞表を出せ、と。当然の判断だった。
しかし・・・。
「そんなことはどうでもいい」
「じゃあ何故なのです?」
詩織の葬儀は旭川で行われた。喪主は師匠だった。俺は出席しなかった。健一はそのまま旭川にとどまった。葬儀のその日、俺は一日中、粉々になったあの椅子の破片を見つめていたのだ。俺は幽霊の残骸をただひたすら見つめていた。なぜ、こんなものを作ってしまったのかまったく分からなかった。今でも分からない。分かっているのはたった一つ。
俺にはもう椅子は削れない。ただそれだけであった。儂のがらんどうの心に、それだけがたった一つコロンと転がった。
「俺は・・・もうダメだ」
「ちがうっ」
善次郎が自分の頭を手で押さえて言った。
「銀さんはすごいよ、あんたはすごい。誰が認めなくてもあしだけは一番それを知ってる。それじゃダメですか?ダメなのですか?」
油蝉が再び勢いを取り戻した。
俺は布袋を掴むと立ち上がった。
「銀さんっ !! 」
「じゃあな、善次郎」
善次郎が震えている。
俺は歩き出した。
「銀さん、そんならあしも辞めるぞっ。木工を辞める。けど、あしは・・・あしはあんたのようには逃げないぞ。社長になってやる。この会社の社長になって、それで・・・それで銀さんを連れ戻すんだ」
善・・・違うんだ。
そういうことではないのだ。
儂は入り口の木戸をくぐった。
蝉の夏に包まれた。
大きな入道雲が品川の方角に湧いていた。
背中で善次郎が泣きながら叫んでいた。
「銀さん、カンナは・・カンナだけは捨てないで下さいよ。あと・・あとは・・カンナはそこら辺に転がしちゃあダメですよ。作品が終わったらちゃんと蹲踞(そんきょ)ですよっ。棚に立てかけて礼をして終うんですよっ」
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蜃気楼の向こう。
バス停に会津下駄の男が立っていた。
「よお」
白い開衿シャツの前を開けて中の見事な入墨を晒している。不機嫌そうな顔の裏にどこかもの悲しい色が宿っていた。
三島新一だった。
「やはりそういうことになるのかよ」
「・・・」
「ケッ」
三島新一が紙片をホレと突き出した。
「小田原の空き家だ。俺が芝(会社)から譲ってもらった小さな庵だが・・・」
吐き捨てるように言った。
「お前にやる」
無言で受け取った。
「いずれ戻って来い。お前みたいのがいないと張り合いがなくていかん」
白いシャツが背中を向けた。
俺は、しばらくの間その紙片を手で弄っていたが、やがてそれをポケットに入れた。
土埃を上げて鼻付きのバスが止まった。
*****************
その後・・・。
日本全国を転転とした儂は、ある日思い立ったように三島新一から譲り受けた、小田原の庵を訪れた。草に埋もれた小さな小屋は20畳の畳間と10畳の土間しかなかった。土間の端に小さな炊事場があった。庵の下には小さな医院があった。その個人医が庵を訪れて名乗った。「武藤さん、いやあ偶然ですね、お忘れですか?奥村ですよ」かつての詩織の担当医だった。奥村が去ると、儂は無言で風呂敷を広げ木工道具を並べた。誰に乞われることも無く、ただひたすら箸を削り始めた。
*****************
ある日の朝。
一人の学生が庵に現れた。
ほれぼれするような大男だった。
その学生はのっそりと板戸をくぐると、奥で箸を削る儂を見据えて行った。
「墜ちたものだな」
細く眠そうな目がさらに細められた。
健一・・・。
『父さんは日本一』
儂の足に絡み付いて来た幼子の面影は一つもなかったが、まぎれもなく健一だった。胸の奥の熾火が揺らめいた。
やがて、健一がボソボソした声で言った。
「父さん・・・。俺は決して父さんを許さない。あなたの言う家具を呪って生きてやる。呪うために・・・俺は家具をやることにした」
儂は何も言わなかった。
口が開かなかった。
開いたとたんに儂を儂として保っている根本が壊れてしまいそうだったからだ。本当は駆け出して抱きしめたかった。地に額を擦り付けて、一万回でも謝りたかった。儂のせいで、ずっと苦しかったろう、つらかったろう。それを押し退けて、よう大人になった。ようここまで大きくなったと抱きしめたかった。しかし、どんな筋があって儂にそれが出来ようか。儂にそんな権利は一粒もないのだ。
「それで善かろう」
とだけ言った。
健一が太く息を吸い込んだ。しばらく息を詰め、儂を睨み、そして静かにそれを吐いた。
「それだけを言いに来た」
健一がのっそりと出て行った。
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ある日の朝。
高級スーツに身を包んだ小男が黒塗りのクラウンに乗って現れた。
「・・・・」
アンパンみたいな丸い顔の小男はしばらく無言で、箸を削る儂の手元を見つめていた。
その顔に涙が一筋、流れて落ちた。
夕方にさしかかった頃、その男は意を決したように自分の膝をパンと打つと、庵を出て行った。
儂は威風堂々とした善次郎の背中を無言で見送った。
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そして・・・。
時は流れる。
飛び矢の速度で。
それはもう、
ただひたすら、
静かに。
そして、
おごそかに。
*************
ある日の朝。
風のように一人の少女が舞い込んで来た。
涼しい目元の美しい娘だった。
「銀さんだ !! 」
訝しげな目を向ける儂に少女が言った。
「あ、朝倉です。朝倉舞ね、善爺の孫。伝説の銀さんに一度会いたかったの。おじいには内緒で来ちゃった」
『あしは朝倉と申します』
『兄さんお名前は?』
『武藤、武藤銀次郎』
『あしは朝倉善次郎です』
『似た名だな』
『似てますね』
善次郎の孫。
荘八の娘か。
面影がある。
「銀さん、あのね、私、天才なの」
天才?
「・・・なんの天才だ」
「販売よ。もう誰にも負けないんだから。日本一よ ! 」
日本一?
「・・・日本一何を売る」
舞がキョトンとした顔をした。
そしてケタケタと笑った。
「家具に決まってるでしょ。あたしは善次郎の孫だよ」
家具・・・日本一。
胸に疼痛が走った。
若かりし頃の苦渋が胃から逆流してきた。
「ねえ、また来るね、いいでしょ?ここ、なんか落ち着くんだ」
****************
そして・・・。
その日が来た。
『あ、じいさんが銀さん?』
石田春吉。
奴が来たのだ。
そのくそ生意気な坊主は薮から棒にこう言った。
『あーえーっと・・・
椅子を作ってくんねーかな』
儂にまつわる全ての事情を知った上で奴はそう言った。他人の気を知らんでモノを言う愚か者ではなかった。真逆だ。奴は、すべて知った上で覚悟を決めて厚顔無恥で素っ頓狂を振る舞える剛の者であった。
****************
[ 間奏 ]
僕らは知っている
結ばれた糸は人を放っておかない
ひとたび結ばれた情はつながって行くのだ
喜び
憧れ
後悔
怒り
憎しみ
哀しみ
連綿と続くそのつながりを何と呼ぼうか。
つながりは新たなつながりを呼ぶ。
そしてさらなる複雑な織りを紡いで行く。
出来上がったその織物を・・・。
僕らは何と呼んだらよいのだろう。
それを歴史と呼ぼうか
それを運命と呼ぼうか
それを宇宙と呼ぼうか
それは
永遠に奏でられる歌のように
命の限界を越えてつながる・・旋律か
何万語にも及ぶ運命の奏(かなで)であるか
いいや
もうそれは一言で良いのだ
喜びも
憧れも
後悔も
怒り憎しみも
そして哀しみでさえも
それら一切合切を
僕らは・・・
「愛と呼ぶべきなのである」
**************
儂の前にシウリ桜があった。
気が遠くなる昔。
儂が火のように若かった頃。
身をよじらせて心焦がれた材が・・・。
今、目の前に転がっていた。
『あのシウリか?』
『ああ。あのシウリだ』
『なぜお前があの材を持ってる?』
『旭川の仙人を口説いたんだよ』
師匠・・・まだ生きていたか。
化けもの桜が15枚に縦割りにされて、儂の前にその身を晒している。灰紅の木色。手ですくった水を投げつけた。飛び散って濡れた所から薄桃色に染まった。覗き込んで、儂は老いた我が目を見開いた。目が細かい。いやそこではない。この組織・・・。指を置いた。材の表面をなぞる。ああ・・・。見たことのない細かい渦と、それを巻き込みうねる大きな波が、びっしりと・・・壮絶な杢を形成していた。もう一度 指し水を投げた。ああ・・・色が深い・・。桃色から紅。まだまだ変わる。これは、もう・・・深紅だ。こんな桜・・・見たこともない。
その時、
やにわにシウリの目がこちらを見た。
二つの目玉に、ぎょろりと見られた気がした。
儂は二、三歩後ろによろめいた。
ドサリとその場に尻餅を突いた。
儂にこれを削れるのか?
神話の化け物に素手で挑むようなものだ。
無理だ。
御主・・・。
アイヌの神木。
無理だ。
儂には無理だ。
文字通り刃が立たない。
『お前では足らんのだ』
かつての師匠の言葉が頭に甦った。
ピィィ
腹を空かせたトンビの甲高い鳴き声が外から聞こえた。
儂はその場で意識を失った。
シウリの前で意識を失うのは、子供の頃と、これで二度目であった。
******************
あぐらをかく俺の前に今井専修が立っていた。片唇を曲げて皮肉の笑みを浮かべている。儂は言った。「どうした専修?お前は死んだと聞いたんだがな。ずいぶんと若いナリで出て来たじゃないか」今井専修がフンと笑って言った。「ならこの俺はお前の夢なんだろうさ」「夢?」「そうさ、夢さ、お前のな」「・・・そうか」「そうか、じゃないぞ、銀?」「なんだ」「なんだじゃない、俺が遠い昔にお前に教えたことがあるだろう。それを思い出せ」「お前になど教えを乞うたことはないね」「いいや、教えた」ふうっと別の男が専修の前に立った。三島新一だった。「よお、ぼけなす」「なんだ次はお前か、お前もとっくの昔にくたばったはずだぞ、事故死だろう?ボケッとしてっからだ馬鹿」「銀、てめえ、俺がお前に教えたことを今でも分からねえでいやがるのかい」「・・・お前も専修もわからねえことをいいやがる。一体なんだってんだ」「よく思い出せ、銀次郎」「知るか。大体、てめえら死んでまで俺の前に現れるんじゃねえ」専修が悲しい顔をした。それを見た三島兄が肩をすくめた。行こうぜ?どちらかが言った。なんだ。もう帰るのか?ちょっと待て。今少し儂は楽しい心持ちだったのだ。「お、おいちょっと待てよ。もう少し話して行けよ。儂はよ、お前らより長く生きたけどな・・・なんというかだな、少しな、寂しかったんだよ。あの時もっとよ、お前らと話をしたり酒を飲んでりゃ良かったってよ・・・今は思うんだぞ。なあ、待てよ。そう急ぐなよ。しかし、2人の影はゆっくりと消えて行く。ちぇっ。なんだよ。また一人じゃねえかよ。儂がまた一人になっちまうじゃねえかよ。
それにしても・・・。
ああ・・・腹が痛えなあ。
******************
シウリの上で目を覚ました。
亀腹がギリギリと痛んでいる。
儂はゆらりと立ち上がった。
黒柿の鉋が手の先に転がっていた。
あわててそれを拾う。
また善次郎に怒られちまうからな。
蹲踞(そんきょ)とか言ってよ。
その時。
心に何かが、ぶつかった。
ふいに2人の教えを思い出したのだ。
『奴の木工は力づくだ。モクを押さえつけてもいい作品は生まれんよ』
そうか・・・そういうことか。
・・・・。
それを言いたくて出て来たか専修よ。
『お前が背負ってんのは自分だろ?だからお前はちっぽけなんだよ』
三島新一・・・。
そうだ・・・その通りだ。
奴らの言葉が、奴らの教えが、今、心に溶けて行く。ゆるゆると、心の底に暖かい温度が広がって行った。
目を閉じた。
「独りだったなぁ」
儂の唇が薄い笑みの弧を描く。
「儂はずっと独りだったなぁ。
思えばたくさんの友がいたのになぁ。
なんとまあ愚かであったことか・・・」
独り言が勝手に口を突いた。
しかし、
まだおぬしがおったな。
儂はシウリをもう一度見下ろした。
ぎょろりとした目など、どこにもなかった。
シウリはシウリだった。
目などあるはずもない。
ただ・・・。
儂は口を開いた。
「シウリよ・・。アイヌの神よ。
儂でいいのか?」
『木と会話する?
何をぬかす。
木は木だ。
人ではない』
ついに・・。
儂の渇ききった体から涙がこぼれた。驚いて手で目を触った。子供のように泣いた目をこすりながら言った。
「儂はいろんな木を削ってきた。だが、やはり儂はお前だけを削るために生まれて来たのだ。だが、それは・・・儂の都合だ。お前の都合はどうだ。お前はどう思う?儂に削らせてくれるか、とそういうことなのだが・・・ああっくそっ」
涙が後から後から流れ出してきた。
くそう。
老いぼれになってこんな種類の涙など流してはいけないのだ。こういう涙を流していいのは、いくらでもやり直しのきく若い者だけなのだ。
左手で目頭をグッと押さえた。
右手で黒柿の鉋を握りしめた。
「頼む。儂にお前を削らせて・・」
その瞬間。
庵に音が弾けた。
ベキッとも
バキッとも
取れる音だった。
木が弾けて割れる音?
足下の木端が20cmほど割れていた。
100年近く乾燥してきた木だ。
割れや反りなどとうの昔に出尽くしている。
それが割れた。
返事であろう。
これはシウリの声であろうと思った。
どっちだ?
削るなと言ったのか?。
違うな?
お前は儂に削れと言ったのだろう
・・・。
「そうだな?」
すうっと、
銀次郎がシウリに飛びついた。
遅くも早くもない、流れるような動きであった。
鉋をシウリの身に当てた。
「ありがとよ」
サクリ。
削りの一足を入れた。
銀次郎の最後の木工が始まった。
*******************
半月後。
今日も儂はシウリを削っている。
だいたいの手順は頭の中にあった。もう半世紀近く考えて来た手順だ。
しかし。
造形やデザインなどどうでもいい。こいつが思うところを切り出してやるだけだ。その一方で俺が思うように仕口を取って行くだけだ。最後にどのようなものが出来上がるか。詰まる所、それは儂やお前の知る由ではないのだ。
お前も、儂も、結局は何ほどのモノではなかったのだな。儂らの我(われ)だけを並べてしまえば、この世における数多くの我(われ)の内の単なる一っづつであるだけだ。
しかし。
お互いの我(われ)を抜け出し、共同して産み出されるこの何かは、俺とお前にとっての我(われ)以上に代え難いモノとなるのだろうな。
そういうことか。
人も木もこの世のありとあらゆるモノは、我(われ)のみではその存在価値すらないのだ。それぞれの我(われ)を互いに知覚し合う他の者を持ってして、初めて我らは互いの存在に意味を為すことができるのであった。
簡単なことであったな。
その簡単なことがまったく分からなかった人生だった。
インインイン。
儂の手の中で。
刃が鳴っている。
刃が泣いている。
****************
また数日が経った。
外は今日も細かい雨が降っている。
儂の鼻と耳はまだ辛うじて使えている。
なによりも・・・。
儂の手が・・・。
まだこうして動いておるのだ。
シウリの削れる音。
仄かに香るお前の匂い。
長く乾燥した木が削れる感触。
基本手順。
手元の座椅子の木取りと荒削りは、もうほとんど完成している。何のミスもなく、あっという間に終わってしまった。それはそうだろう。なにせ50年以上の時をかけて、頭の中で何千回と繰り返してきた作業なのだから。
今日も儂はシウリを削っている。
だいたいの手順は頭の中にあった。もう半世紀近く考えて来た手順だ。
しかし。
造形やデザインなどどうでもいい。こいつが思うところを切り出してやるだけだ。その一方で俺が思うように仕口を取って行くだけだ。最後にどのようなものが出来上がるか。詰まる所、それは儂やお前の知る由ではないのだ。
お前も、儂も、結局は何ほどのモノではなかったのだな。儂らの我(われ)だけを並べてしまえば、この世における数多くの我(われ)の内の単なる一っづつであるだけだ。
しかし。
お互いの我(われ)を抜け出し、共同して産み出されるこの何かは、俺とお前にとっての我(われ)以上に代え難いモノとなるのだろうな。
そういうことか。
人も木もこの世のありとあらゆるモノは、我(われ)のみではその存在価値すらないのだ。それぞれの我(われ)を互いに知覚し合う他の者を持ってして、初めて我らは互いの存在に意味を為すことができるのであった。
簡単なことであったな。
その簡単なことがまったく分からなかった人生だった。
インインイン。
儂の手の中で。
刃が鳴っている。
刃が泣いている。
****************
また数日が経った。
外は今日も細かい雨が降っている。
その恵みに打たれて、
新緑は色鮮やかに濡れているはずだ。
儂の目はもうほとんど見えない。
この数日、何も口に出来ていない。
それでも・・・。
わき立つ山の匂い。
遠くに渓流のせせらぎ。新緑は色鮮やかに濡れているはずだ。
儂の目はもうほとんど見えない。
この数日、何も口に出来ていない。
それでも・・・。
わき立つ山の匂い。
儂の鼻と耳はまだ辛うじて使えている。
なによりも・・・。
儂の手が・・・。
まだこうして動いておるのだ。
シウリの削れる音。
仄かに香るお前の匂い。
長く乾燥した木が削れる感触。
基本手順。
手元の座椅子の木取りと荒削りは、もうほとんど完成している。何のミスもなく、あっという間に終わってしまった。それはそうだろう。なにせ50年以上の時をかけて、頭の中で何千回と繰り返してきた作業なのだから。
しかし、ここからが肝心だ。
いや、むしろここからなのだ。
こいつと儂の意識を重ね合わせていく、共同で産みの作業をしなくてはならない。だが、ここからは思う存分カンナを使える。それは心が湧き立つ作業だった。
『あしがいます。あしが銀さんの友です』
一つ削って善次郎を削ぐ。
『鬼の子め』
一つ削って師匠を削ぐ。
『お父さんは日本一』
一つ削って健一を削ぐ。『なんということだ。
俺は幽霊を作ってしまった』
一つ削って己を削ぐ。
『身寄りは銀さんでしょうが』
一つ削って愛を削ぐ
しかしどうだ?
儂の心の中に未だ皆がおるのは何故なのだ?
居るどころではない。
未だこんなにも大きく皆が居る。
削ったふりして、
削いだふりして、
結局、儂は何も捨てきれなかったのだ。
それどころか・・・。
刃が鳴っている。
刃が鳴っている。
**********************
そして、儂はシウリと2人きりになった。
世界に・・・立った2人でポツンと居る。
神木よ。
神居よ。
お前は彼の大地でどれだけ生きた?
・・・。
そうか。
これがお前の記憶か。
ここは?大風か。
辛かったろう。
ここは?寒波か。
苦しかったろう。
ここは?長い春だな。
楽しかったな。
この葉影で鳥は歌ったか?
この枝を栗鼠は走ったか?
この根股で熊が寝たのか?
ああ。ここは?
これがお前が倒れた原因だな。
悲しかったな。
くやしかったろう。
大丈夫だ。
儂が全部削り出してやる。
その想いを形にしてやる。
そして。
最後に残るものがあるはずだ。
儂の様にお前にもあるはずだ。
それを儂に見せてみろ。
どこだ?
その記憶は何処にある?
怖がるな。
儂にまかせておけ。
ああ、それとな。
一つ約束をしてくれ。
お前だけはどこにも行くな。
お前だけは儂を置いて行くな。
俺とお前の作品。
俺たちの子供ができたら一緒に行こう。
どうしたここをこんなに赤くして。
ああ、儂か。
儂の口から垂れてしまったか。
すまん。
今拭くからな。
刃が鳴っている。
刃が泣いている。
詩織よ。
我が愛よ。
儂は今、深海にいる。
蒼く昏い海底に沈んで行く。
儂はそこで一筋の光を探している。
シウリよ。
お前のどこか奥底にそれはある。
必ずあるのだ。
あとどれくらいだ?
どのくらいで見つけられる?
二日か・・一日で終わるか。
それともたった今か。
あとひと削りで見つけてしまえる気もするし、永遠に見つからない気もする。
あとひと削りで見つけてしまえる気もするし、永遠に見つからない気もする。
しかしここからだ。
いずれにせよ、ここから、
儂の長い旅が始まるのだ。
*************************
数日が過ぎた。
何度も何度も鉋を落としかけた。
気を許すと、すぐに意識が飛んでしまうのだ。
その感覚が徐々に短くなって行く。
最後の仕上げに入っている。
笠木を削っている。
笠木を削っている。
座った者の背があたる部分を削っている。
シウリが言う。
もっと、もっとだ。
俺はもっと奥に居る。
おい。
これ以上削るとペラペラになっちまうぞ?
大丈夫だ。
あんたが見事な木取りをしてくれたからな。
まだいけるはずだ。
なあ、昨日な、善次郎に手紙を出したよ。
謝ったのか?
謝ったよ。
それは良かったな。
あいつは結局三越の社長になったからな。
それがどうした?
立派なもんさ。
お前も立派だぞ。
そうかな?
そうさ。
俺を削れるのはお前しかいなかった。
そう言ってくれるか。
お前、ガキの頃俺の横で倒れただろう。
そんなこともあったな。
あの時もこのように俺と2人で話したな。
そうなのか?
そうさ。
お前は目を開けて俗世に戻りそれを忘れてしまっただけさ。
そうだったか。
儂はいつから我(われ)に取り憑かれていたのだろうなあ。
さあな、今となったらどうでもいい話だろう?
そうだな。
なあ、シウリよ。
なんだ?
善次郎も専修も新一新二も左膳のおっさんもな。
ああ。
師匠も、健一もな
ああ。
詩織もそして、シウリ、お前もな。
ああ。
みんながいてこその儂だったよ。
・・・・。
おい、どうした?
銀・・・よくここまで来れたな。
そうだな、儂も驚いているよ。
ああ、銀次郎。
なんだ?
もう少しだ。
もう少し?
もう少しでお前が俺に・・・届くぞ。
ハッと気づいた。笠木に突っ伏してまた意識を失っていた。目を開けたが、真っ暗だった。ここに来てボンヤリと見えていた目がついにその光を失ったのだ。いつの間にか刃鳴りも聞こえなくなっている。ただ轟々と音がなっている。耳も潰れたようだ。ああ。しかしすごいぞ。轟々と鳴る地獄の音の中に儂の心(しん)の音がハッキリと聞こえる。ドクンドクンと儂の心臓が鳴っている。生きているぞ。儂はまだ生きている。鼻も馬鹿になっているな。目と耳と鼻が無くても木工はできるのか。いや、できるのだ。儂は儂の心が止まるまでは削り続けるぞ。しかし、これはいかんな。口から出る血の量がすごい。胃ってのはやっかいだな。血が口から出てきちまうからな。目が見えないから分からないが、たぶんお前には血を引っ掛けてはいないはずだぞ。かけたら台無しだからな。儂の血なんかで汚したら、お前に申し訳ないからな。いや、儂にも申し訳ないから、あんなことは二度としないぞ。さあ、儂に残されたのはこの触覚と心臓だ。儂は心臓と手だけになってお前を削っている。ほれ、まだ行ける。まだ行けるぞ。
む?
その時だった。唯一残った手の触覚が、手の中の刃が、コツンと何かにぶつかった。固い変異に刃が引っかかった。慌てて左手でそこを手探る。再び失いかけた意識がその強烈な知覚を感じて体の中へと戻って来た。しかし、次に来た恐ろしい予感に再び意識を失いそうになる。
なんだ?
これは。
死に節(丸く腐った節の跡)ではないか。
しかもこれは掘ればまだ大きくなるぞ。
ちょっと待て。
なぜこんな所にこれほど大きな死に節があるのだ?
おかしいではないか。
俺はこんな笠木のど真ん中に抜け節を作ってしまったのか。
こんなもの掘り出したら。
作品としてはだめだ。
珠の傷となる。
一番の見せ所に黒く腐った穴など見せてはいけない。
削り出しの銀次郎としたことがどうした。
なぜこんな初歩的なことを見落とした?
もう命の時間が少ないというのに。
シウリ、お前の代わりなどないというのに。
絶望に命が吸い込まれそうになるのを必死に耐えた。
落ち着け。
シウリ、お前の代わりなどないというのに。
絶望に命が吸い込まれそうになるのを必死に耐えた。
落ち着け。
落ち着くんだ。
ここの部位は、このシウリの生まれて間もない最深部だ。
それが笠木の木取りの定石だ。
生まれたときの小さな双葉。
生まれたときの小さな双葉。
それがやがて大きくなりそこから新たな枝が別れて行く。
その大本の2つ枝はここと、ここだ。
手で確認する。
あ・・・。
なぜここにもう一本ある?
なぜもう一本がここで死んでいる?
あ・・・。
なぜここにもう一本ある?
なぜもう一本がここで死んでいる?
なぜ3本目があるのだ・・・?
そこで儂は・・・・。
ひゅうと息を飲んだ。
3本生り(みつなり)か。
お前は奇形だったか !!
どのような大樹でも事の始めは双葉から始まる。しかし時折、何万本の一本の割合で、奇形の芽が出ることがある。三つ葉だ。しかし人の奇形と同じく、三つ葉の樹は長生きが出来ない。若木に至る前にほとんど死滅する。健常ではない生命の生存力が低いのは、生き物であれば等しく同じことだ。
しかし・・・。
お前は凄まじい年月を生きたではないか。
なぜ・・・。
いや・・・。
まさか。
まさか、お前。
3本目を自分で殺したのか。
二本の枝で取り込み取り潰したのか。
その傷を抱え込み、癒し、そして尚、その異常な樹齢を生きたのか。
そうか。
そうであったか。
なんと・・。
なんと・・。
壮絶な話だ。
よくぞ、
その生命としての劣りを克服した。
シウリが深いため息をもらした。
よくここまで来たな、銀次郎。
よくここまで来たな、銀次郎。
ああ。そうさ。
これが俺だ。
俺の恥部だ。
そしてこれが
俺の誇りだよ。
銀次郎・・。
これが俺の全てだ。
そして礼を言う。
この通り礼をいうぞ、銀次郎。
ま、まて。
待て、シウリ。
礼を言うのは早いぞ。
ここまで笠木の周りを削ったのだ。
ここも削らなければならん。
そうしないとここだけ背にあたるではないか。
これでは完成しないのだ。
これでは完成しないのだ。
なら削ればいいさ。
いや、しかし・・・。
これ以上削ったら腐れた穴が出て来てしまう。
その腐れた穴を衆目に晒してしまうではないか。
晒せば良いではないか。
なんと・・・。
・・・・。
・・・・。
・・・・。
そうか。
そうか。
そうだな。
そうだったな。
これがお前だからな。
そうさ。
そしてこの大穴をお前も持っている。
この椅子はお前でもあるのだ。
それを恥ずかしがるか?銀次郎よ。
この椅子はお前でもあるのだ。
それを恥ずかしがるか?銀次郎よ。
これが儂か。
そうだな、なるほど。
まさしくその通りだ。
まあいい。
分かった。
しかし、儂も木工家の端くれだ。
削り出すか
出さないか
しばらく考えさせてくれ。
ああ、俺はもう充分だ。
あとはお前に任せることにしよう。
いくらでも考えるがいい。
第一、もう俺たちには時間などあってないようなものなのだから。
あとはお前に任せることにしよう。
いくらでも考えるがいい。
第一、もう俺たちには時間などあってないようなものなのだから。
そうだな。
それではシウリよ。
・・・しばし待て。
・・・しばし待て。
*********************
儂は立ち上がり腕を組んだ。
体が暖かい何かに包まれた。
ああ、旭川だ。
これは故郷の小春日の温もりだ。
なつかしいなあ。
詩織はどこへ行った?
あいつは目を離すとすぐどこかに隠れてしまうからなあ。
あいつを見つけるのが俺の役割さ。
おーい。
おーい。
詩織ぃ、
どこぉ隠れた?
どこぉ隠れた?
詩織ぃー。
**********************
朝がキラキラと始まった。
庵は優しい朝の光りに満ちていた。
床中に鉋屑と血反吐が散っていた。
石田春吉は戸口にもたれかかり、腕を組んで、もう一時間以上もジッとその情景を見つめていた。
大きな低座椅子が銀次郎の足下にその偉容を叫んでいた。大人が並んで2人は座れそうなほど大きな低座椅子だった。座る者の背を隠すほどの大きな笠木が静かな威厳を放出していた。周りの血が凄い。しかし、血はその椅子だけを避けているようだった。
石田春吉は先ほどからその椅子の産声を聞いている。その低座椅子が生まれたての赤子のように大きな声を出して元気に泣いているのを聞いていた。
戸口を向いて仁王立ちする銀次郎は、腕を組み顔半分から下をゾップリと真っ赤な血で染めて絶命していた。
目を開き、小首を傾げて。
恥ずかしいような。
誇らしいような。
ちょっと困ったような。
初めて我が子を見る父のような。
そんな顔をしていた。
その銀次郎の右半身に暖かい朝の光が差し掛かっている。
背後で車のブレーキが聞こえた。
朝倉善次郎が降りて来た。
善次郎は石田春吉を見ると、ぺこりと頭を下げた。
ゆっくりと銀次郎に歩み寄る。
「銀さん・・・」
善次郎は両手で自分の顔を被った。
そして銀次郎の足下にうずくまった。
そして銀次郎の足下にうずくまった。
「銀さん・・・」
善次郎の肩の震えが収まった頃、
石田春吉はその老人の肩を叩いた。
「爺さん・・・」
低座椅子の笠木を指差した。
低座椅子の笠木を指差した。
「これは終わっているのかい?」
善次郎はその声にハッと顔を上げた。
低座椅子の笠木に目を落とす。
次に銀次郎の組んだ右手に目を遣る。
そして、やにわに周囲に目を走らせた。
壁の小棚に駆け寄った。
「ああ」
そこで善次郎は、また崩れて落ちた。
ああー
ああー
小さな老人が今度は大きな大きな声で哭き始めた。
「銀さん蹲踞(そんきょ)したなあ。礼をしたんだなあ。しっかり終(しま)ったんだなあ」
小棚には血のりの突いた黒柿の鉋が、刃だけはきれいに拭かれ、きちんと立てかけてあった。
「お疲れさま。銀さん、お疲れさま」
下を向いていた石田春吉が顔を上げた。
「そうか。終わっているか。そうだよな」
「そうか。終わっているか。そうだよな」
石田春吉が独り言のように呟いた。
・・・銀さんよ。しっかりと受け取ったぜ。
「この椅子、俺がもらって行くぜ」
そう声に出して呟きながら、春吉はもう一度その低座椅子を見下ろした。
低座椅子の背もたれ・・・笠木の部分にボッカリと大きく黒く腐れた穴が開いていた。石田春吉はその穴を見つめながら心の声で叫んだ。
『待ってろよ・・・武藤健一』
*********************
善次郎が泣き崩れるのを見ると儂まで悲しくなる。
泣くな善よ。
生きるも死ぬもたいして変わらぬぞ。
まあ、お前もすぐ分かるさ。
それより善、最後に頼みがある。
手紙にも書いたがな。
その若造を頼む。
その若造を頼む。
お前がそいつの後ろ盾となるのだ。
兄弟子の最後の願いだ。
聞いてくれるな?
そして若造。
石田春吉。
礼を言うぞ。
お前のおかげで儂は儂の人生を終うことができた。
その椅子を頼むぞ。
そして健一を頼むぞ。
お前に儂の後始末をさせるのも申し訳ないのだが、まあ許せ、これも縁だ。
戸口に人影が揺れた。
詩織が立っていた。
詩織はいつも戸口で待っている。
俺は詩織の手を握った。
俺は詩織の手を握った。
外の空気は久しぶりだ。
うーん・・と背伸びをした。
「待ったか?」
詩織はちょっとうつむいて照れたように笑った。
「ぜんぜん待ってませんよ」
「そうか。では行くか」
「どちらに行くのですか?」
「カレーだろう?」
「あ !! 」
「中村屋に行くのだろう?」
「やった !! 」
詩織がピョンと跳ねた。
「あ、でも・・」
「どうした」
「ちょっと健一が心配です」
『あの子、友達ができないの。
頑固なの。だからね、
誰よりもあの子には、
友達が必要なの』
********************
「ああ、健一なら大丈夫だ。あいつな・・・」
**********************
『一つ最後に聞きたい』
『なんだよ?』
『お前は健一のなんだ?』
『俺が?
武藤健一の?
何かって?』
*******************
「何だろうな、まあ、でも、俺は奴の・・・」
「友達なんだろうな」
*******************
「友達を見つけたらしいぞ」
「本当?良かったぁ」
「さて行くか」
「はい」
「あ、そうだ銀さん」
「なんだ?」
「ちゃんと日本一になれた?」
(完)
2015年7月26日日曜日
刃鳴り 3 「名匠展」
若き天才、石田春吉率いる
インテリアショップCOREの一代勃興史
「東京インテリアショップ物語」番外編 5
[ 稀代の削り師 武藤銀次郎 編 ]
sub-episode 5
「刃鳴り」
3
「名匠展」
「あのシウリ桜はお前にはやれん」
旭川、神居村。
師匠は腕組みをしたまま俺を睨みつけた。
「名匠展ですよ?」
「それがどうした?」
師匠は腕組みをしたまま俺を睨みつけた。
「名匠展ですよ?」
「それがどうした?」
「俺が削るんです」
「だから、それがどうした」
「師匠っ !!」
窓の外。
工房小屋は半分くらい雪で埋まっている。
その重みで小屋がギシギシと軋んでいた。
ひょうひょうと雪が鳴っている。
達磨ストーブの上の薬缶がカタカタ音をたてている。
俺はその場に膝を突いた。
自分の手を床に置き、その手の上に頭を付けた。
「師匠っ。お願いです。あれを削らせて下さい」
屈辱だ。
俺の自尊心がギリギリと歯ぎしりしている。
心が破裂しそうだった。
しかし・・・。
負けたくないのだ。
三島兄弟にも、
鳥居左膳にも、
今井専修にも、
善次郎にもだ。
十中八九俺は負けないだろう。
そんなことは俺が一番知っている。
しかし俺は100%で勝ちたいのだ。
完膚なきまでに・・・
勝ちたいのだ。
師匠は俺を見下ろしている。
俺の目の前につま先が見える。
俺はその目を外し、もう一度頭を床に擦り付けた。
「銀次郎・・・」
「はい」
静かで優しい声だった。
「だから、それがどうした」
「師匠っ !!」
窓の外。
工房小屋は半分くらい雪で埋まっている。
その重みで小屋がギシギシと軋んでいた。
ひょうひょうと雪が鳴っている。
達磨ストーブの上の薬缶がカタカタ音をたてている。
俺はその場に膝を突いた。
自分の手を床に置き、その手の上に頭を付けた。
「師匠っ。お願いです。あれを削らせて下さい」
屈辱だ。
俺の自尊心がギリギリと歯ぎしりしている。
心が破裂しそうだった。
しかし・・・。
負けたくないのだ。
三島兄弟にも、
鳥居左膳にも、
今井専修にも、
善次郎にもだ。
十中八九俺は負けないだろう。
そんなことは俺が一番知っている。
しかし俺は100%で勝ちたいのだ。
完膚なきまでに・・・
勝ちたいのだ。
師匠は俺を見下ろしている。
俺の目の前につま先が見える。
俺はその目を外し、もう一度頭を床に擦り付けた。
「銀次郎・・・」
「はい」
静かで優しい声だった。
「詩織は無事なのか?」
「今、検査入院しています、さっきそう言ったはずです」
なぜここで詩織なんだ?
今俺は名匠展の話をしている。
その材料の話をしている。
関係ないではないか?
頭が混乱した。
「銀次郎・・・」
「はい」
窓枠がギシッと音を立てた。
「お前では足らんのだ」
小屋がミシッと音を立てた。
「あのシウリはお前にはやれん」
「つっ・・・」
その瞬間、俺の体が、爆発した
「てめえっっ」
師匠に殴りかかる自分を、
もう俺は止めることができなかった。
*********************
2年後。
1955年。
1月。
冷えきった板床に置いた足が痺れている。
しんとした工所に木を削る音が響く。
手の中の鉋(カンナ)をギュッと握りしめる。
欅(けやき)を削っている。
俺は今日も、ただ黙々と座椅子を削っている。
ひと月前、
病院に呼び出された。
「まだがんばっています。
しかし、本当は未だもっているのが不思議なくらいです」
奥村という若い医師が病室の前の廊下で俯きながら言った。
俺は下を向くしかなかった。
「最後はご自宅で・・・」
初めて詩織が倒れてから2年が経った。
スキルス性乳がん。リンパ転移。脳転移。
広尾、虎ノ門、築地。
何度も病院を替えた。
無駄だった。
詩織はどんどん痩せ細って行った。
ベッドの横に健一が座っている。
5歳の背中が悲しみに縮んでいる。
俺はその横に座り、眠る詩織を見つめた。
ここ数日、詩織は目を開けてくれない。
遠く旭川で。
詩織が生まれた朝を思い出した。
俺の背中に乗ってはしゃぐ詩織。
学校までの長い道のり。
引いて歩いたその小さな手。
俺は最初からこいつと一緒にいた。
ずっと一緒に・・・。
善次郎と細君の公恵さんが病室に入って来た。
「銀さん・・・」
「ああ」
善次郎が健一の肩に手を置いた。
健一は善次郎の家に世話になっていた。
俺と別に暮らし、健一はいつの日か笑わなくなっていた。
本当は今こそ父親である俺が必要なのだ。
しかし、
俺にはそれが出来なかった。
どうすれば良いのかも分からなかった。
木工所と病院の往復の毎日。
家事など出来るはずもない。
『健一と荘八は歳も近いし、気にしないでください』
そう言ってくれた善次郎と公恵さんに甘えた。
「健一君、学校、行こうか」
公恵さんの声に健一が言葉もなく立ち上がった。俺を見ることなく俺の前を通り過ぎて行く。俺に似た細い目が眠そうに細められて空を見つめている。その目からなんの感情も見て取ることはできなかった。
病室には俺と善次郎が残された。
「銀さん、名匠展のエントリーなんですが・・・」
善次郎が鞄から書類を出した。
名匠展?
遠い昔の話のように聞こえた。
そうか、あれから2年。
もうそんな時期になっていたか。
しかし、今の俺に何を削れというのだ?
木工所の仕事をこなすだけで精一杯だ。
それはすべて病院代と健一の養育費に消えて行く。
あとは酒代だ。
酒量が増えた。
一日中飲んでると言ってもいい。
俺の胃は常に軋んだ音を立てている。
このまま俺も死ねばいいのだ。
そう毎日思っている。
俺はもういい。
そんな力は残っていないのだ。
「善、俺はもう・・・」
言いかけたその時。
「日本・・・」
鈴のような声がした。
その声に振り向いた。
「詩織?」
詩織の手が動いた。
宙をさまよい、パタリと布団に落ちた。
詩織・・。
詩織が目を開けていた。
目がキョロキョロと動いている。
俺を探しているのだ。
俺はベッドに駆け寄った。
詩織の手を握る。
ひからびた詩織の口が薄く開いた。
「銀さん・・・」
「ああ。いるぞここに。
俺はここにいる」
・・・はい。はい。
詩織が微かにそして小刻みに頷いた。
俺の手を握る手。
その手に微かに力がこもった。
「銀さん、お願いがあります」
「なんだ、言え」
「名匠展で日本一になってください」
『銀さんの腕を世界中に知らしめるのでしょう?なら、私が横でそれを応援しなくてどうするのです』
「詩織・・・」
「あとね・・・健一が心配です。あの子・・・」
口がパクパクと動くが声が出ない。
それが恥ずかしいのだろう。
詩織はちょっとはにかんだ。
「ゆっくりでいいですよ、詩織さん」
善次郎が横で声をかけた。
その声に詩織は何度も頷いた。
気づくと病室の隅に医師の奥村が立っていた。
奥村が俺に頷いた。
聞いて上げて下さい。
「あの子、友達ができないの。頑固なの。だからね、誰よりもあの子には・・・友達が必要なの。あの子にはね、特にね、ともだちがいないとだめなの。銀さんと同じなの。ともだちね」
俺はベッドの鉄パイプをギュウッと握った。
「あとね、ごめんね。ぎんさんの日本一をみれなくて、あとね、ごめんねけんいち、ともだちね。しっかりね。あとね、はるになるとね、さくの。きれいなきいろいはな。すきだなわたし、ね?おとうさん?ぎんさん?」
癌に犯された脳。
思考回路が混濁しているのだ。
奥村医師が俺と銀次郎に目を投げた。
押し退けられた。
奥村が用意されていた酸素吸入器を詩織の口に当てた。
救急処置室に運ばれる詩織を見送った後
俺は廊下で踞った。
善次郎が俺の肩に手を置いた。
「善 !!」
「はい」
「材料だ」
「はい」
「東北欅(けやき)でいい。大量に用意しろ」
「はいっ」
*******************
そして・・・。
俺は今日も、ただ黙々と座椅子を削っている。
繊維に目を凝らす。
どこだ?
ここか?
木には時折、繊維が寄っている部分が出る。
それは、その木の独自の性格だったり、気候風土の具合に因るものだったり、地中の養分に左右されたり、または、良性悪性問わず、ウイルスの問題などで発現する。
そして、その寄り固まった繊維部分の様子が斑点状や縞状だったり、牡丹に似ていたり、火焔に見えたりと、不思議で美しい紋様を形成するのだ。
その現象を俺たちは一口にまとめて「杢」(モク)と呼ぶ。
これが単なる木目と「杢目」の違いである。
高級材の楓(かえで)の「バーズアイ・メープル」や欅(けやき)の「ボタン杢」などがその代表例であるように、つまり「杢」とは概ね素材の美しさ=意匠(デザイン)として語られる。この杢が出ているから、美しい、とか、これといった杢が出ていないから取り柄がない、などとというように。
しかし
銀次郎は見た目のデザインで杢を探しているわけではなかった。盤木を使ったテーブル材やキャビネットの扉板だったら杢を意匠として用いて作品を飾ることも考えられる。だが、今、作っているのは脚付き低座椅子だ。椅子は構造と造形が全てだと思っている。椅子に女々しいお飾りなんて必要ない。
銀次郎は優秀な外科医のように、材に指を置いて杢を打診する。材の上を指で、つうっとなぞっては止める。また動かしては止める。
木目の間の雲状の霞。
細かく移ろう組織の変色。
青みがかった細胞の澱み。
銀次郎の目と指はその変節を逃さない。
ここぞという箇所に型紙を当て、チョークを入れて行く。
木取り。
木目の方向、そして複雑きわまりない杢目の緩慢を読み解き、欅(けやき)を帯鋸で切り出して行く。
繊維の凝りを抽出し効果的に用いれば、誰も見たことのない細い椅子を組み上げることが出来るはずだ。
欅(けやき)という固いが鈍重な材の一般論とはまったく異なる、細く美しく流麗な椅子を作れるはずなのだ。
一寸(約3cm)だ。
それ以上ではいけない。
俺の椅子でなくなってしまう。
仕口(木と木の接合部分)以外のすべての部位部分を一寸の太さで構成してやる。
一寸椅子だ。
椅子の必要条件は4っ。
軽きこと。
強きこと。
座り易きこと。
美しきこと。
この中で特に厄介なのが、軽さと強さである。
椅子は軽くしようとすれば脆くなり、強くしようとすると重くなる。軽さと強さは、もともと反比例する要素なのだ。
その逃げ道として、材がある。
例えば、100年でわずか直径50cmにしか太れない木がある。このような材は100年で1Mを越える材より強靭だ。また、階段材や野球のバットに使用される、トネリコ(タモ)のように種として木質そのものが強くしなやかな木がある。このような材は細く攻めることが可能なのである。
だが、と銀次郎は思う。
しかしそこには俺が居ないではないか。
材の強さは俺の腕に因るものではない。
俺は俺のやり方でやる。
材には頼らない。
『奴の木工は力づくだ。木を押さえつけてもいい作品は生まれんよ』
今井専修の声が脳裏に蘇る。
お前ら凡人はそうだろう。
しかし、俺は違う。
お前らと俺は違うんだ。
繊維だ。
杢だ。
寄り固まった部位のみを抜き出して圧倒的な細さを実現してやる。
極限まで細く美しく、そして強い椅子を、俺の木取りの技術で作る。
詩織のような椅子を。
そう。
あの時だ。
『細いな』
詩織にそう言ったことがある。
旭川で祝言を挙げた日の夜であったか。
淡い灯りに透けた詩織が恥じ入るように目を伏せた。
すみません・・。
すぐに涙ぐむ。
いや、そうではない。
違うぞ。
細くてきれいだという意味だ。
そしてお前は強い。
ここぞという時にぜったい引かない強さを持っている。
お前は細くてきれいで強い。
俺はそんなお前が大好きなのだ。
だが俺にそんなセリフを口に出来るわけがない。
代わりにこんなことを言った。
『細くて強い椅子を作るか・・・』
詩織がきょとんとした顔をした。
『なんですか、それ』
詩織の泣き顔が一転する。
『銀さんの頭はいつでも木工ですね』
鈴を転がしたような声でふふふと笑った。
その詩織が・・・。
ひからびた唇で。
かさついた声で。
細い体をさらに細くして・・・。
・・・言った。
『名匠展で日本一になってください』
俺に日本一になれと言ったのだ。
あの時ふいに・・・。
俺の前に長く見失っていた方向が現れた。
詩織がその行く先を指してくれた。
俺はそこに行く。
必ずそこに辿り着く。
と、その刹那。
手の中の鉋(カンナ)が音を出した。
ピィィィィィン。
鳴くか。
俺の代わりにお前が鳴くのか。
インインイン。
刃が鳴っている。
刃が泣いている。
そして・・・。
それに呼応するように。
俺の胃から、肺から、心の臓から何かが吹き出した。
口からそれが迸り出た。
銀次郎が終わらぬ咆哮をあげた。
************************
1955年4月。
青山外苑前。
碧々と葉をつけた銀杏並木の街路は人で埋まっていた。
絵画館の特設会場。
入り口の門に大きく「名匠展」の看板が掲げられた。
会場には36の台座が用意されていた。
その上に全国から集められた作品が乗った。
上には大きく白い布が被せられている。
会場が無数の人間の声でざわついていた。大々的に前宣伝された効果だった。全国の木工所、メーカーなどの関係者、一般観客、新聞社、ラジオ局、TV局、関連企業の社員たち、皇族まで揃っていた。1000人以上集まっている。そして未だ続々と門をくぐって集まってくる。
「銀さん、大丈夫ですか?」
善次郎がフラフラの俺を気づかった。
今朝だ。
今朝ようやく出来上がった。
出来上がったそれに毛布を巻いて、そのまま自分でリヤカーを引いてこの会場に入れたのだ。
「ひどい顔ですよ」
何を言うか。
詩織もまだ頑張っているんだ。
「健一は?」
俺の問いに善次郎が顔を伏せる。
「学校に行きました。一応来いと言ったのですが・・・」
そうか。来なかったか。
あれから詩織の所には一度も行っていない。
行けなかったのとも行かなかったのとも違う。
行っていない。
ただそれだけだ。
健一の幼心は、それに反抗心を持ったのだろう。
当然のことだ。
と、そこへ盲目の老人が会釈をして寄って来た。
「銀次郎さんと善次郎さんで?」
「はい。そうですが」
善次郎が答える。
「鳥居と申します」
鳥居左膳。
高島屋製作所の代表者。
ウインザーの名人だ。
「ああ。これは鳥居さん、初めまして・・・」
善次郎と鳥居のやり取りを遠くに聞きながら、俺は射すような強烈な視線を己の背中に感じていた。刃物のような視線。振り向かずとも誰か分かっている。しかし・・・。そういうわけにもいくまい。意を決して振り返った。向こうの客席に体の小さな男が腕組みをしてこちらを睨んでいた。
師匠・・・。
出品者帳簿に師匠の名はなかったはずだ。
わざわざ見物に来たというのか?
いや・・・。
目が合った。
遠くに立つ師匠の目が言う。
鬼の子め。
お前の鬼が・・・。
ワシの一人娘を、
詩織を喰らいおった。
違う。
違わん。
ワシはお前を許さんぞ。
師匠の目がギラギラとそう語る。
お前を許さん。
見ろ、この通りだ。
師匠の横。
「!!」
健一が立っていた。
健一が師匠と同じ目で俺を睨んでいる。
やめろ!!
師匠!!
健一に何を吹き込んだ?
健一をこの世界に引きずり込むな。
この道は・・・。
修羅の道は俺で終わりだ。
これで終わりにするんだ。
アナウンスが入った。
名匠展が始まった。
**************************
次々と布が取られて行く。
その度に歓声が上がる。
ボクシング会場のようだった。
椅子の品評会には場違いの歓声だ。
しかしこれが復興の声なのだ。
発展の地響きなのだ。
一度這いつくばった日本が今再び立ち上がろうとしている。
立ち上がった先に向かうべき場所。
それは軍拡が行き着く方向ではない。
暮らしを再興する。
それには経済だ。
暮らしの経済・・・。
その象徴は家電だ車だ家具だ
みなそれが分かっている。
だから心が一種異様な興奮に湧くのだ。
この歓声や地響きが雄弁にそれを語っている。
この先・・・。
日本は必ず豊かになるだろう。
一作品に5分、前持って用意された作者による作品意図の解説が入る。佐藤一平、菊池康平など木工家具の頂点とも言うべき審査員が一点一点を間近で確認する。カメラのストロボが焚かれるたびに目の奥が白くなった。
ひと際大きな歓声が湧いた。
善次郎の座椅子だった。
水楢の瑞々しさがよく伝わる椅子だった。
モチーフは明か。
得意技の柾目取り。
どう木取りをしたのか虎斑が椅子全体を被い、それが孔雀が羽を開いたように、放射状に広がっていた。
美しい。
人ごみの中に三島兄弟を見つけた。
が鳴り声を上げて善次郎の椅子をこき下ろしていた。
続けてまた歓声が湧いた。
鳥居左膳のウインザーだ。
細い無数のスピンドルが背骨の形状のS字にうねっている。これは・・・曲げではない・・なんとあの細いスポークをS 字に削り出したのか。一本一本のスピンドルが別形状のS字を描いている。
人間工学の粋だ。
すごい技術だった。
肩を叩かれた。
善次郎が後ろに立って眉根をひそめていた。
「今、会場に連絡が入りました。もうそろそろダメなようです」
詩織・・・。
「俺はここを動かん」
見届けるのだ。
俺は俺を見届けなければならない。
奥歯がバキリと音を立てて潰れた。
それを地面に吐き出した。
会場がどよめいた。
三島兄弟。
見事なフォルム。
錆色のチッペンデール。
マホガニーがネットリとした鈍い赤みを晒している。
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
しかしあれは何だ?
まるで本物だ。
200年以上使用された骨董か?
俺は席を蹴って離れ、展示に駆け寄った。
目の前のチッペンデール。
ぞくり。
と総毛が立ち上がった。
古式骨董ではない。
そのように似せられ新しく作られたものだ。
一体何なのだこれは?
剥がれ、色褪せ、傷痕、背の摩耗、足先の劣化、アームの先のテカリ。
これは・・・。
加工だ。
新しく作ったチッペンデールを骨董に仕立て上げたのだ。
塗装でやったのか。
すごい。
新品の椅子には味がない。
俺たちプロは知っている。
良い材、善い仕口(つなぎ目の構造)で作られた椅子は100年以上の時を越える。そして、その年月を経た椅子だけが、そこに刻まれた経年変化と共に至高の椅子となるのだ。
奴らは、それを新品を用いて骨董に仕立てたのだ。
三島兄弟は見事な椅子師としての腕と共に、一つの可能性をここに問いかけた。
塗装だ。
すべてのモノがピカピカの新品ならいいというわけではない。状況や場合次第では、このような骨董加工を必要とする場所も出てくるだろう。裁判所の造作などはどうだ?国会図書館は?そのような威厳を求められる空間には打ってつけの加工法ではないか。
これは家具以外にも無限に使える。
この表現方法は・・・。
この業界の、いやこの国の産業の宝となるだろう。
これも一つの意匠なのだ。
観客がどよめいている。
これが普通とは違うと見抜いている。
何か新しく抜本的な切り口だと、素人であっても、いや、素人だからこそ、大きな可能性を肌で理解するのだ。
「おう、銀次郎」
いつの間にか隣に立った三島新一が俺を小突いた。
「どうだ?」
「・・・しかしこれは・・」
「おっと」
新一は言いかけた俺に手をかざし、制した。
「俺らは俺らの名誉などにゃ興味がねえんだよ」
そうだ。
この椅子は品評会向きではない。
この兄弟が目指したもの。
それは・・。
「芝だ。俺らは芝を背負ってる」
会社の企業広告だ。
芝はこういうこともできる。
表現の幅が他所とは違うと。
つまり、名匠展の舞台で、三島兄弟は己を捨てて会社の広告を打って来たのだ。この2人が、あの気性を押さえつけて企業人に徹しただと?そうなると底知れないのは芝だ。そして芝の三島兄弟はその芝と共に伝説として語られることになる。個人を捨てて企業に徹し、そうすることで個人では行き着けないほどの栄光を結局・・・個人が手にすることになるのだ。
「お前が背負ってんのは自分だろ?だからお前はちっぽけなんだよ」
言い捨てると兄弟が2人同時に背を向けた。
俺は何かを言いかけて口を噤んだ。
会場では今井専修の椅子がお披露目されていた。
藤の曲げ木椅子。
美しい椅子だったが、観衆はさほど関心を示していなかった。
奇麗すぎるのだ。
この数時間で目の肥えてしまった人間には凡弱に映るのだろう。
俺は辺りを見回す。
師匠の姿が見えなかった。
健一もどこかへ消えていた。
いや、どこかへではない。
病院だ。
「三越製作所、武藤銀次郎・・・」
と、アナウンスが俺の名を呼んだ。
「作品名、[深海] 」
俺の作品の白布が取られた。
ついに。
一寸角の構造が世に晒される・・・。
その瞬間。
俺は幻視を見た。
台の上には椅子ではなく
俺が立っていた。
目をこすった。
もう一度目を凝らす。
欅の低座椅子が乗っている。
なんだ、今のは・・・?
そうだ。
あれが俺の椅子だ。
見よ !!
あれが俺の・・・。
あれが・・・。
あれ・・・?
「あ・・・?」
俺は声を漏らした。
「違う・・・」
この椅子じゃない。
突如。
その直感に襲われた。
俺が削りたかったのは。
あれじゃない。
なぜだ?
どこを間違えた?
わからない。
どこも間違えていない。
しかし・・。
なんということだ。
この椅子には・・・。
魂がない。
なんということだ !!
俺は幽霊を作ってしまった !!
************************
しかし、
会場に今日一番のどよめきが起こった。
そのうねりが大きく広がって行った。
審査員の佐藤一平、菊池康平が、椅子の数cmの距離までその顔を寄せた。
佐藤が軽く仰け反った。
菊池がポカンと口を開けた。
「なんだこりゃ?ハッタリだ。この・・・」
叫びかけた三島新二の肩を新一が引っ張った。首を振りながら、俺の椅子の個所個所を新二に指で示した。そこをしばらく凝視した新二の背中が微かに震えた。
鳥居左膳がしきりに俺の椅子をなで回している。盲目の指が杢の凝りとその配置個所を言い当てて行く。やがて、鳥居左膳も、やはり首を振ってうなだれた。
その向こう。
今井専修が遠くで俺を見つめていた。
その唇が微かに笑っていた。
そして。
静かに右手を上げる。
遠くから、その拳を俺に突き立てた。
「銀さん !!」
善次郎が俺の腕を引っ張っていた。
「善・・・」
お前、顔が土気色だぞ。
善次郎が何か言っている。
やがて体を揺さぶられた。
なんだよ。
どうした。
そんなにしなくても分かっている。
死んだんだろう?
詩織が・・・。
たった今。
死んだのだろう?
****************************
灰色の視界。
灰色の音。
灰色の匂い。
気づくと世界は灰色に沈んでいた。
俺はそんなおかしな世界にいた。
灰色の木の投票箱が開けられた。灰色の木札をだれかが集計している。俺の名が呼ばれた。金賞だと言われて、灰色のトロフィーを渡された。俺を灰色の歓声や拍手が襲った。小さい箱を渡された。開けた。小さな灰色の鉋がコロリと転がり出て来た。灰色の俺はそれを掴んで、首を傾げた。右に傾げ、左に傾げ、それでも意味を成さないので、もう一度右に傾げた。灰色の俺は灰色の壊れた人形のように何度も首を傾げた。なんだこれは?詩織?これはなんだっけ?黒柿の鉋(カンナ)だ。それは分かっているんだがな。俺はふらふらと足を前に出した。あれ?詩織?ちょっと待て。ちょっと教えてくれ。どうして俺はこんな所に居るのだ?そもそもお前はどこに行くのだ?隣で善次郎が叫んでいる。俺に向かって大声を出している。病院?分かっている、行く。行くさ。だからそんなに急かすな。しかし、病院は少し怖い。恥ずかしいことなのだがな、詩織、お前まで灰色になってしまっていたらと考えるとな、俺はとても怖いのだ。ふらふらと進む。善次郎が俺の背中を叩いている。待て。ちょっと待て。俺は今大事なことをしなければならないのだ。今思いついたのだ。大事なこと。ほら、これだ。この幽霊だ。目の前のこの低座椅子がすべての元凶なのだ。この椅子は俺だ。つまり俺が幽霊なのだ。だから、俺が削ったこの幽霊椅子、これをな、俺ごとこうして・・・。
会場が湧いた。
金賞に輝いた男が自分の作品を頭の上に持ち上げたからだ。
全員が立ち上がり、再び拍手を贈った。
会場に割れんばかりの賞賛が渦を巻いた。
高々と掲げられた椅子。
ピタリと頭上に止まったその椅子がふいにユラリと傾いだ。
その時。
その痩せぎすの男が、その椅子を床に叩き付けた。
嫌な音をマイクが拾った。
狂気の音が大音響で響き渡った。
拍手がパラパラと止まる。
そして。
男が、もう一度、椅子を拾った。
再び地面に叩き付ける。
会場が騒然となった。
記者たちのストロボが一斉に焚かれた。
ああ・・・。
壊れないな。
幽霊だからかな。
いや違うな。
そうだ。
壊れないように杢を木取ったからだな。
ちょっとやそっとじゃ壊れない。
そのように出来ているのだ。
でもこうするとどうだ。
こうならどうだ。
善次郎ががむしゃらに俺の背中にかじりついている。
泣きながら銀さーん銀さーんと叫んでいる。
泣くな。
善。
泣くな。
こんな世界は壊さないとな。
悲しみに沈む5歳の背中。
俺を睨みつける細く眠い目。
泣くな。
健一。
泣くな。
お前はきっと強くなる。
そして・・・。
詩織。
どうやら・・・。
俺はな・・・。
どうやら俺は何かを大きく間違えていたようだ。
2年後。
1955年。
1月。
冷えきった板床に置いた足が痺れている。
しんとした工所に木を削る音が響く。
手の中の鉋(カンナ)をギュッと握りしめる。
欅(けやき)を削っている。
俺は今日も、ただ黙々と座椅子を削っている。
ひと月前、
病院に呼び出された。
「まだがんばっています。
しかし、本当は未だもっているのが不思議なくらいです」
奥村という若い医師が病室の前の廊下で俯きながら言った。
俺は下を向くしかなかった。
「最後はご自宅で・・・」
初めて詩織が倒れてから2年が経った。
スキルス性乳がん。リンパ転移。脳転移。
広尾、虎ノ門、築地。
何度も病院を替えた。
無駄だった。
詩織はどんどん痩せ細って行った。
ベッドの横に健一が座っている。
5歳の背中が悲しみに縮んでいる。
俺はその横に座り、眠る詩織を見つめた。
ここ数日、詩織は目を開けてくれない。
遠く旭川で。
詩織が生まれた朝を思い出した。
俺の背中に乗ってはしゃぐ詩織。
学校までの長い道のり。
引いて歩いたその小さな手。
俺は最初からこいつと一緒にいた。
ずっと一緒に・・・。
善次郎と細君の公恵さんが病室に入って来た。
「銀さん・・・」
「ああ」
善次郎が健一の肩に手を置いた。
健一は善次郎の家に世話になっていた。
俺と別に暮らし、健一はいつの日か笑わなくなっていた。
本当は今こそ父親である俺が必要なのだ。
しかし、
俺にはそれが出来なかった。
どうすれば良いのかも分からなかった。
木工所と病院の往復の毎日。
家事など出来るはずもない。
『健一と荘八は歳も近いし、気にしないでください』
そう言ってくれた善次郎と公恵さんに甘えた。
「健一君、学校、行こうか」
公恵さんの声に健一が言葉もなく立ち上がった。俺を見ることなく俺の前を通り過ぎて行く。俺に似た細い目が眠そうに細められて空を見つめている。その目からなんの感情も見て取ることはできなかった。
病室には俺と善次郎が残された。
「銀さん、名匠展のエントリーなんですが・・・」
善次郎が鞄から書類を出した。
名匠展?
遠い昔の話のように聞こえた。
そうか、あれから2年。
もうそんな時期になっていたか。
しかし、今の俺に何を削れというのだ?
木工所の仕事をこなすだけで精一杯だ。
それはすべて病院代と健一の養育費に消えて行く。
あとは酒代だ。
酒量が増えた。
一日中飲んでると言ってもいい。
俺の胃は常に軋んだ音を立てている。
このまま俺も死ねばいいのだ。
そう毎日思っている。
俺はもういい。
そんな力は残っていないのだ。
「善、俺はもう・・・」
言いかけたその時。
「日本・・・」
鈴のような声がした。
その声に振り向いた。
「詩織?」
詩織の手が動いた。
宙をさまよい、パタリと布団に落ちた。
詩織・・。
詩織が目を開けていた。
目がキョロキョロと動いている。
俺を探しているのだ。
俺はベッドに駆け寄った。
詩織の手を握る。
ひからびた詩織の口が薄く開いた。
「銀さん・・・」
「ああ。いるぞここに。
俺はここにいる」
・・・はい。はい。
詩織が微かにそして小刻みに頷いた。
俺の手を握る手。
その手に微かに力がこもった。
「銀さん、お願いがあります」
「なんだ、言え」
「名匠展で日本一になってください」
『銀さんの腕を世界中に知らしめるのでしょう?なら、私が横でそれを応援しなくてどうするのです』
「詩織・・・」
「あとね・・・健一が心配です。あの子・・・」
口がパクパクと動くが声が出ない。
それが恥ずかしいのだろう。
詩織はちょっとはにかんだ。
「ゆっくりでいいですよ、詩織さん」
善次郎が横で声をかけた。
その声に詩織は何度も頷いた。
気づくと病室の隅に医師の奥村が立っていた。
奥村が俺に頷いた。
聞いて上げて下さい。
「あの子、友達ができないの。頑固なの。だからね、誰よりもあの子には・・・友達が必要なの。あの子にはね、特にね、ともだちがいないとだめなの。銀さんと同じなの。ともだちね」
俺はベッドの鉄パイプをギュウッと握った。
「あとね、ごめんね。ぎんさんの日本一をみれなくて、あとね、ごめんねけんいち、ともだちね。しっかりね。あとね、はるになるとね、さくの。きれいなきいろいはな。すきだなわたし、ね?おとうさん?ぎんさん?」
癌に犯された脳。
思考回路が混濁しているのだ。
奥村医師が俺と銀次郎に目を投げた。
押し退けられた。
奥村が用意されていた酸素吸入器を詩織の口に当てた。
救急処置室に運ばれる詩織を見送った後
俺は廊下で踞った。
善次郎が俺の肩に手を置いた。
「善 !!」
「はい」
「材料だ」
「はい」
「東北欅(けやき)でいい。大量に用意しろ」
「はいっ」
*******************
そして・・・。
俺は今日も、ただ黙々と座椅子を削っている。
繊維に目を凝らす。
どこだ?
ここか?
木には時折、繊維が寄っている部分が出る。
それは、その木の独自の性格だったり、気候風土の具合に因るものだったり、地中の養分に左右されたり、または、良性悪性問わず、ウイルスの問題などで発現する。
そして、その寄り固まった繊維部分の様子が斑点状や縞状だったり、牡丹に似ていたり、火焔に見えたりと、不思議で美しい紋様を形成するのだ。
その現象を俺たちは一口にまとめて「杢」(モク)と呼ぶ。
これが単なる木目と「杢目」の違いである。
高級材の楓(かえで)の「バーズアイ・メープル」や欅(けやき)の「ボタン杢」などがその代表例であるように、つまり「杢」とは概ね素材の美しさ=意匠(デザイン)として語られる。この杢が出ているから、美しい、とか、これといった杢が出ていないから取り柄がない、などとというように。
しかし
銀次郎は見た目のデザインで杢を探しているわけではなかった。盤木を使ったテーブル材やキャビネットの扉板だったら杢を意匠として用いて作品を飾ることも考えられる。だが、今、作っているのは脚付き低座椅子だ。椅子は構造と造形が全てだと思っている。椅子に女々しいお飾りなんて必要ない。
銀次郎は優秀な外科医のように、材に指を置いて杢を打診する。材の上を指で、つうっとなぞっては止める。また動かしては止める。
木目の間の雲状の霞。
細かく移ろう組織の変色。
青みがかった細胞の澱み。
銀次郎の目と指はその変節を逃さない。
ここぞという箇所に型紙を当て、チョークを入れて行く。
木取り。
木目の方向、そして複雑きわまりない杢目の緩慢を読み解き、欅(けやき)を帯鋸で切り出して行く。
繊維の凝りを抽出し効果的に用いれば、誰も見たことのない細い椅子を組み上げることが出来るはずだ。
欅(けやき)という固いが鈍重な材の一般論とはまったく異なる、細く美しく流麗な椅子を作れるはずなのだ。
一寸(約3cm)だ。
それ以上ではいけない。
俺の椅子でなくなってしまう。
仕口(木と木の接合部分)以外のすべての部位部分を一寸の太さで構成してやる。
一寸椅子だ。
椅子の必要条件は4っ。
軽きこと。
強きこと。
座り易きこと。
美しきこと。
この中で特に厄介なのが、軽さと強さである。
椅子は軽くしようとすれば脆くなり、強くしようとすると重くなる。軽さと強さは、もともと反比例する要素なのだ。
その逃げ道として、材がある。
例えば、100年でわずか直径50cmにしか太れない木がある。このような材は100年で1Mを越える材より強靭だ。また、階段材や野球のバットに使用される、トネリコ(タモ)のように種として木質そのものが強くしなやかな木がある。このような材は細く攻めることが可能なのである。
だが、と銀次郎は思う。
しかしそこには俺が居ないではないか。
材の強さは俺の腕に因るものではない。
俺は俺のやり方でやる。
材には頼らない。
『奴の木工は力づくだ。木を押さえつけてもいい作品は生まれんよ』
今井専修の声が脳裏に蘇る。
お前ら凡人はそうだろう。
しかし、俺は違う。
お前らと俺は違うんだ。
繊維だ。
杢だ。
寄り固まった部位のみを抜き出して圧倒的な細さを実現してやる。
極限まで細く美しく、そして強い椅子を、俺の木取りの技術で作る。
詩織のような椅子を。
そう。
あの時だ。
『細いな』
詩織にそう言ったことがある。
旭川で祝言を挙げた日の夜であったか。
淡い灯りに透けた詩織が恥じ入るように目を伏せた。
すみません・・。
すぐに涙ぐむ。
いや、そうではない。
違うぞ。
細くてきれいだという意味だ。
そしてお前は強い。
ここぞという時にぜったい引かない強さを持っている。
お前は細くてきれいで強い。
俺はそんなお前が大好きなのだ。
だが俺にそんなセリフを口に出来るわけがない。
代わりにこんなことを言った。
『細くて強い椅子を作るか・・・』
詩織がきょとんとした顔をした。
『なんですか、それ』
詩織の泣き顔が一転する。
『銀さんの頭はいつでも木工ですね』
鈴を転がしたような声でふふふと笑った。
その詩織が・・・。
ひからびた唇で。
かさついた声で。
細い体をさらに細くして・・・。
・・・言った。
『名匠展で日本一になってください』
俺に日本一になれと言ったのだ。
あの時ふいに・・・。
俺の前に長く見失っていた方向が現れた。
詩織がその行く先を指してくれた。
俺はそこに行く。
必ずそこに辿り着く。
と、その刹那。
手の中の鉋(カンナ)が音を出した。
ピィィィィィン。
鳴くか。
俺の代わりにお前が鳴くのか。
インインイン。
刃が鳴っている。
刃が泣いている。
そして・・・。
それに呼応するように。
俺の胃から、肺から、心の臓から何かが吹き出した。
口からそれが迸り出た。
銀次郎が終わらぬ咆哮をあげた。
************************
1955年4月。
青山外苑前。
碧々と葉をつけた銀杏並木の街路は人で埋まっていた。
絵画館の特設会場。
入り口の門に大きく「名匠展」の看板が掲げられた。
会場には36の台座が用意されていた。
その上に全国から集められた作品が乗った。
上には大きく白い布が被せられている。
会場が無数の人間の声でざわついていた。大々的に前宣伝された効果だった。全国の木工所、メーカーなどの関係者、一般観客、新聞社、ラジオ局、TV局、関連企業の社員たち、皇族まで揃っていた。1000人以上集まっている。そして未だ続々と門をくぐって集まってくる。
「銀さん、大丈夫ですか?」
善次郎がフラフラの俺を気づかった。
今朝だ。
今朝ようやく出来上がった。
出来上がったそれに毛布を巻いて、そのまま自分でリヤカーを引いてこの会場に入れたのだ。
「ひどい顔ですよ」
何を言うか。
詩織もまだ頑張っているんだ。
「健一は?」
俺の問いに善次郎が顔を伏せる。
「学校に行きました。一応来いと言ったのですが・・・」
そうか。来なかったか。
あれから詩織の所には一度も行っていない。
行けなかったのとも行かなかったのとも違う。
行っていない。
ただそれだけだ。
健一の幼心は、それに反抗心を持ったのだろう。
当然のことだ。
と、そこへ盲目の老人が会釈をして寄って来た。
「銀次郎さんと善次郎さんで?」
「はい。そうですが」
善次郎が答える。
「鳥居と申します」
鳥居左膳。
高島屋製作所の代表者。
ウインザーの名人だ。
「ああ。これは鳥居さん、初めまして・・・」
善次郎と鳥居のやり取りを遠くに聞きながら、俺は射すような強烈な視線を己の背中に感じていた。刃物のような視線。振り向かずとも誰か分かっている。しかし・・・。そういうわけにもいくまい。意を決して振り返った。向こうの客席に体の小さな男が腕組みをしてこちらを睨んでいた。
師匠・・・。
出品者帳簿に師匠の名はなかったはずだ。
わざわざ見物に来たというのか?
いや・・・。
目が合った。
遠くに立つ師匠の目が言う。
鬼の子め。
お前の鬼が・・・。
ワシの一人娘を、
詩織を喰らいおった。
違う。
違わん。
ワシはお前を許さんぞ。
師匠の目がギラギラとそう語る。
お前を許さん。
見ろ、この通りだ。
師匠の横。
「!!」
健一が立っていた。
健一が師匠と同じ目で俺を睨んでいる。
やめろ!!
師匠!!
健一に何を吹き込んだ?
健一をこの世界に引きずり込むな。
この道は・・・。
修羅の道は俺で終わりだ。
これで終わりにするんだ。
アナウンスが入った。
名匠展が始まった。
**************************
次々と布が取られて行く。
その度に歓声が上がる。
ボクシング会場のようだった。
椅子の品評会には場違いの歓声だ。
しかしこれが復興の声なのだ。
発展の地響きなのだ。
一度這いつくばった日本が今再び立ち上がろうとしている。
立ち上がった先に向かうべき場所。
それは軍拡が行き着く方向ではない。
暮らしを再興する。
それには経済だ。
暮らしの経済・・・。
その象徴は家電だ車だ家具だ
みなそれが分かっている。
だから心が一種異様な興奮に湧くのだ。
この歓声や地響きが雄弁にそれを語っている。
この先・・・。
日本は必ず豊かになるだろう。
一作品に5分、前持って用意された作者による作品意図の解説が入る。佐藤一平、菊池康平など木工家具の頂点とも言うべき審査員が一点一点を間近で確認する。カメラのストロボが焚かれるたびに目の奥が白くなった。
ひと際大きな歓声が湧いた。
善次郎の座椅子だった。
水楢の瑞々しさがよく伝わる椅子だった。
モチーフは明か。
得意技の柾目取り。
どう木取りをしたのか虎斑が椅子全体を被い、それが孔雀が羽を開いたように、放射状に広がっていた。
美しい。
人ごみの中に三島兄弟を見つけた。
が鳴り声を上げて善次郎の椅子をこき下ろしていた。
続けてまた歓声が湧いた。
鳥居左膳のウインザーだ。
細い無数のスピンドルが背骨の形状のS字にうねっている。これは・・・曲げではない・・なんとあの細いスポークをS 字に削り出したのか。一本一本のスピンドルが別形状のS字を描いている。
人間工学の粋だ。
すごい技術だった。
肩を叩かれた。
善次郎が後ろに立って眉根をひそめていた。
「今、会場に連絡が入りました。もうそろそろダメなようです」
詩織・・・。
「俺はここを動かん」
見届けるのだ。
俺は俺を見届けなければならない。
奥歯がバキリと音を立てて潰れた。
それを地面に吐き出した。
会場がどよめいた。
三島兄弟。
見事なフォルム。
錆色のチッペンデール。
マホガニーがネットリとした鈍い赤みを晒している。
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。
しかしあれは何だ?
まるで本物だ。
200年以上使用された骨董か?
俺は席を蹴って離れ、展示に駆け寄った。
目の前のチッペンデール。
ぞくり。
と総毛が立ち上がった。
古式骨董ではない。
そのように似せられ新しく作られたものだ。
一体何なのだこれは?
剥がれ、色褪せ、傷痕、背の摩耗、足先の劣化、アームの先のテカリ。
これは・・・。
加工だ。
新しく作ったチッペンデールを骨董に仕立て上げたのだ。
塗装でやったのか。
すごい。
新品の椅子には味がない。
俺たちプロは知っている。
良い材、善い仕口(つなぎ目の構造)で作られた椅子は100年以上の時を越える。そして、その年月を経た椅子だけが、そこに刻まれた経年変化と共に至高の椅子となるのだ。
奴らは、それを新品を用いて骨董に仕立てたのだ。
三島兄弟は見事な椅子師としての腕と共に、一つの可能性をここに問いかけた。
塗装だ。
すべてのモノがピカピカの新品ならいいというわけではない。状況や場合次第では、このような骨董加工を必要とする場所も出てくるだろう。裁判所の造作などはどうだ?国会図書館は?そのような威厳を求められる空間には打ってつけの加工法ではないか。
これは家具以外にも無限に使える。
この表現方法は・・・。
この業界の、いやこの国の産業の宝となるだろう。
これも一つの意匠なのだ。
観客がどよめいている。
これが普通とは違うと見抜いている。
何か新しく抜本的な切り口だと、素人であっても、いや、素人だからこそ、大きな可能性を肌で理解するのだ。
「おう、銀次郎」
いつの間にか隣に立った三島新一が俺を小突いた。
「どうだ?」
「・・・しかしこれは・・」
「おっと」
新一は言いかけた俺に手をかざし、制した。
「俺らは俺らの名誉などにゃ興味がねえんだよ」
そうだ。
この椅子は品評会向きではない。
この兄弟が目指したもの。
それは・・。
「芝だ。俺らは芝を背負ってる」
会社の企業広告だ。
芝はこういうこともできる。
表現の幅が他所とは違うと。
つまり、名匠展の舞台で、三島兄弟は己を捨てて会社の広告を打って来たのだ。この2人が、あの気性を押さえつけて企業人に徹しただと?そうなると底知れないのは芝だ。そして芝の三島兄弟はその芝と共に伝説として語られることになる。個人を捨てて企業に徹し、そうすることで個人では行き着けないほどの栄光を結局・・・個人が手にすることになるのだ。
「お前が背負ってんのは自分だろ?だからお前はちっぽけなんだよ」
言い捨てると兄弟が2人同時に背を向けた。
俺は何かを言いかけて口を噤んだ。
会場では今井専修の椅子がお披露目されていた。
藤の曲げ木椅子。
美しい椅子だったが、観衆はさほど関心を示していなかった。
奇麗すぎるのだ。
この数時間で目の肥えてしまった人間には凡弱に映るのだろう。
俺は辺りを見回す。
師匠の姿が見えなかった。
健一もどこかへ消えていた。
いや、どこかへではない。
病院だ。
「三越製作所、武藤銀次郎・・・」
と、アナウンスが俺の名を呼んだ。
「作品名、[深海] 」
俺の作品の白布が取られた。
ついに。
一寸角の構造が世に晒される・・・。
その瞬間。
俺は幻視を見た。
台の上には椅子ではなく
俺が立っていた。
目をこすった。
もう一度目を凝らす。
欅の低座椅子が乗っている。
なんだ、今のは・・・?
そうだ。
あれが俺の椅子だ。
見よ !!
あれが俺の・・・。
あれが・・・。
あれ・・・?
「あ・・・?」
俺は声を漏らした。
「違う・・・」
この椅子じゃない。
突如。
その直感に襲われた。
俺が削りたかったのは。
あれじゃない。
なぜだ?
どこを間違えた?
わからない。
どこも間違えていない。
しかし・・。
なんということだ。
この椅子には・・・。
魂がない。
なんということだ !!
俺は幽霊を作ってしまった !!
************************
しかし、
会場に今日一番のどよめきが起こった。
そのうねりが大きく広がって行った。
審査員の佐藤一平、菊池康平が、椅子の数cmの距離までその顔を寄せた。
佐藤が軽く仰け反った。
菊池がポカンと口を開けた。
「なんだこりゃ?ハッタリだ。この・・・」
叫びかけた三島新二の肩を新一が引っ張った。首を振りながら、俺の椅子の個所個所を新二に指で示した。そこをしばらく凝視した新二の背中が微かに震えた。
鳥居左膳がしきりに俺の椅子をなで回している。盲目の指が杢の凝りとその配置個所を言い当てて行く。やがて、鳥居左膳も、やはり首を振ってうなだれた。
その向こう。
今井専修が遠くで俺を見つめていた。
その唇が微かに笑っていた。
そして。
静かに右手を上げる。
遠くから、その拳を俺に突き立てた。
「銀さん !!」
善次郎が俺の腕を引っ張っていた。
「善・・・」
お前、顔が土気色だぞ。
善次郎が何か言っている。
やがて体を揺さぶられた。
なんだよ。
どうした。
そんなにしなくても分かっている。
死んだんだろう?
詩織が・・・。
たった今。
死んだのだろう?
****************************
灰色の視界。
灰色の音。
灰色の匂い。
気づくと世界は灰色に沈んでいた。
俺はそんなおかしな世界にいた。
灰色の木の投票箱が開けられた。灰色の木札をだれかが集計している。俺の名が呼ばれた。金賞だと言われて、灰色のトロフィーを渡された。俺を灰色の歓声や拍手が襲った。小さい箱を渡された。開けた。小さな灰色の鉋がコロリと転がり出て来た。灰色の俺はそれを掴んで、首を傾げた。右に傾げ、左に傾げ、それでも意味を成さないので、もう一度右に傾げた。灰色の俺は灰色の壊れた人形のように何度も首を傾げた。なんだこれは?詩織?これはなんだっけ?黒柿の鉋(カンナ)だ。それは分かっているんだがな。俺はふらふらと足を前に出した。あれ?詩織?ちょっと待て。ちょっと教えてくれ。どうして俺はこんな所に居るのだ?そもそもお前はどこに行くのだ?隣で善次郎が叫んでいる。俺に向かって大声を出している。病院?分かっている、行く。行くさ。だからそんなに急かすな。しかし、病院は少し怖い。恥ずかしいことなのだがな、詩織、お前まで灰色になってしまっていたらと考えるとな、俺はとても怖いのだ。ふらふらと進む。善次郎が俺の背中を叩いている。待て。ちょっと待て。俺は今大事なことをしなければならないのだ。今思いついたのだ。大事なこと。ほら、これだ。この幽霊だ。目の前のこの低座椅子がすべての元凶なのだ。この椅子は俺だ。つまり俺が幽霊なのだ。だから、俺が削ったこの幽霊椅子、これをな、俺ごとこうして・・・。
会場が湧いた。
金賞に輝いた男が自分の作品を頭の上に持ち上げたからだ。
全員が立ち上がり、再び拍手を贈った。
会場に割れんばかりの賞賛が渦を巻いた。
高々と掲げられた椅子。
ピタリと頭上に止まったその椅子がふいにユラリと傾いだ。
その時。
その痩せぎすの男が、その椅子を床に叩き付けた。
嫌な音をマイクが拾った。
狂気の音が大音響で響き渡った。
拍手がパラパラと止まる。
そして。
男が、もう一度、椅子を拾った。
再び地面に叩き付ける。
会場が騒然となった。
記者たちのストロボが一斉に焚かれた。
ああ・・・。
壊れないな。
幽霊だからかな。
いや違うな。
そうだ。
壊れないように杢を木取ったからだな。
ちょっとやそっとじゃ壊れない。
そのように出来ているのだ。
でもこうするとどうだ。
こうならどうだ。
善次郎ががむしゃらに俺の背中にかじりついている。
泣きながら銀さーん銀さーんと叫んでいる。
泣くな。
善。
泣くな。
こんな世界は壊さないとな。
悲しみに沈む5歳の背中。
俺を睨みつける細く眠い目。
泣くな。
健一。
泣くな。
お前はきっと強くなる。
そして・・・。
詩織。
どうやら・・・。
俺はな・・・。
どうやら俺は何かを大きく間違えていたようだ。
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