2015年7月12日日曜日

刃鳴り 1 「亀腹」


若き天才、石田春吉率いる
インテリアショップCOREの一代勃興史
「東京インテリアショップ物語」番外編 5 

[ 稀代の削り師 武藤銀次郎 ]






sub-episode 5

「刃鳴り」

                           
1
「亀腹」


刃が鳴り始めた。

しばらく手の中の鉋(カンナ)を見つめていた銀次郎がふと顔を上げた。

開け放しの木戸。
その向こうを見る。

外は細かい雨が降っている。

その恵みに打たれて、新緑は色鮮やかに濡れているはずだ。

儂の目はもうほとんど見えない。
この数日、何も口に出来ていない。

わき立つ山の匂い。
遠くに渓流のせせらぎ。

***************************

その小さな庵は小田原と箱根湯本の間の山あいにひっそりと立っていた。早川の中流、その瀬が二股に分かれる脇にその平屋はあった。

周りに民家は無い。
ただ草が深く生えている。

ここに来てもう40年近くになる。


自分の歳はもう憶えていない。

80を越えた時、数えるのをやめてしまった。

庵の間取り。
20畳ほどの畳間と縦に長い10畳ほどの土間しかない。土間の端に小さな炊事場がある。

一人暮らしには広過ぎるこの庵も、住み続ければ案外住めるものだ。

銀次郎は止めた手を再び動かし始めた。

かさついて筋張った手に握られた手鉋(カンナ)。台座に黒柿を使った特注品。遠い昔に賜った記念の品。

腹に埋め込まれていた菊の紋はその昔、銀次郎自らが外して捨ててしまった。

手に引っかかるのが嫌だったからだが、その他にも理由がある。

ピィィ
腹を空かせたトンビの甲高い鳴き声が外から聞こえた。

銀次郎は椅子を削っている。
椅子を削るのは久しぶりだった。

もう40年以上、箸だのカラクリ箱だのしか作ってこなかった。それらは小田原や湯河原に軒を連ねるみやげもの屋に並ぶ。銀次郎は、その上がりで食ってきた。


銀次郎は手を動かしている。


カシュッ

カシュッ

と、木の繊維が削られる小気味良い音が庵に響く。


そして、先ほどより鳴り始めたこの音。


キィンキイイン・・・。


手の中のカンナの刃が鳴っている。


幻聴なのはわかっている。

儂はこれを知っている。
ひどく遠い昔に聞いた音だ。

そう。

この音があいつを連れて行ってしまったのだ。

インインイン。


そうか。


今度は儂を連れて行くか。


善い。


今度こそ儂を連れて行け。


屈み作業に入った。


それを待っていたかのように、作務衣の下腹が引き攣れたように痛んだ。


手を遣る。

大きく固いしこり。
もう最近はしこりなどという大きさではない。

亀腹。


胃がんだ。


善い、善いのだ。


銀次郎は引きつったように唇を引いた。おめおめと生きながらえてきた。

潮時などとうの昔に越えている。

腹を押さえて座り直す。

椅子の背もたれ・・。
笠木と己の目線の高さを合わせる。

つい先月、この庵にふらりとやってきた小男の顔を思い出した。

そいつは玄関戸をガラリと開けて、躊躇もせず、いきなり土間に入って来た。奥で箸を削っていた儂に、その男は短く刈り込んだ茶色い髪を撫でながら唐突に言った。

**************************


「あ、じいさんが銀さん?」


儂は男を無視して手を動かし始めた。


「あーえーっと・・・

椅子を作ってくんねーかな」

男がそばに寄って来て

儂の目の前にかがんだ。

「あれ?じいさん・・耳聴こえないの?」


儂の顔を覗き込む。


「・・・家具は作らん」


男を見ずに儂は言った。


「うん。まあ、そう聞いてるよ、俺も。あ、あと下の奥村さんからの伝言で今は安静にして寝てろってさ」


坂の下の奥村医院で道を聞いたか。この場所の案内はするなと言ってあったはずだが。


しかし・・・。

礼儀知らずの男だ。

そう思ったが、儂には他人に礼儀云々を言う資格などない。

「帰れ」


それだけを言った。

その男は頭をガリガリ掻きながら

ポツリと言った。

「あんたの息子をやっつけてーのさ」


一瞬・・息が乱れた。


が・・・。


「儂には関係のないことだ」


と答える。


「あっそ。

じゃーいーや。
俺も舞に言われて来ただけだからさ。
じゃあな、邪魔したな」

男が儂に背を向ける。


舞・・舞だと?

「ちょっと待て、小僧」


ほらきたとばかりに振り返る男。

へへっと笑う。

「舞というのは・・・」

「朝倉舞だよ」

男が儂の言葉に被せて言った。


「朝倉善次郎の孫さ。

あ、今ウチで働いてんのね」

朝倉善次郎。

三越百貨店の元社長。
現在は同社筆頭の大株主。
そして
かつての儂の弟弟子。

「舞は健一の所にいたはずだが?」


「まー、いろいろあってさ・・・。

簡単に言や、あんたの息子の問題さ」

「お前の名は?」


「石田春吉」


「儂に椅子を作らせてどうする?」


「さっきも言ったろ?

武藤健一を懲らしめてやんのさ」

沈黙が訪れた。

時計の音が土間に響く。
初夏の湿度が・・・
むうっとその密度を増している。

「材は何を使う」


己の口が勝手に開いた。

何を予感しているというのだ。

「あ、作ってくれんの?」


「いや、そうは言っていない」


石田春吉と名乗った男は視線を右上に向けた。何かを考えているような。そんなフリをしているだけのような。人をくったその姿。腕組みをして胸を張るその姿。

どこかで見たような気がした。


その顔がこちらに戻る。

無理矢理、目を合わせて来た。
そして言った。

「しおり・・・」


その言葉の意味を理解する前に、両腕を鳥肌が被った。


「な、なんだと」


ふらりと立ち上がった。


石田春吉が気圧されるように後退った。

「ワレ、今なんと言った?」


「しおり?しゅり?あれ?なんてったっけ?・・・あっ、シウリだ。シウリ桜だ。道産の」


頭が血を失って目眩がした。

そのまま土間に崩れる。
それを石田春吉が抱きとめた。
儂を木箱の上に座らせる。

「われ・・どこまで知ってる?」


儂は、その手を振りほどいて言った。

石田春吉が立ち上がって背を向けた。そして、ズボンのポケットに両手をズボッと突っ込むと膨れたような顔をして振り向いた。

「アイヌの神木、詩織、銀次郎、善次郎、三越製作所、名匠展。・・・そのあたりは知ってるよ」


善次郎から聞いたか。

いや、舞から聞いたのか。

鳥肌が引いた。


代わりにプツプツと汗が出始めた。

「あのシウリか?」

「ああ。あのシウリだ」
「なぜお前があの材を持ってる?」
「旭川の仙人を口説いたんだよ」

『あのシウリ桜はお前にはやれん』


土下座する儂の前。

仁王のような師匠の顔。

お師匠・・・まだ生きていたのか。


「張りの作業はできんぞ」


儂はようやくそれだけ言った。


「そりゃそうだ。板座を削ってもらわなきゃ困る。あんたはもう一度、名匠展をやるんだから」

「名匠展…」

『カレーが食べたいです。中村屋の』

鈴のような声。

耳の奥に蘇る

詩織・・・。


今の儂にあれができるのか?

儂は自分の亀腹に手を置いた。
いや。
今も先もない。
今しかないのだ。

そうか・・・。
そういうことか。
あの時すでに儂は己の死を予感していたのだ。

「銀さん・・。いや、武藤銀次郎。俺はよ、あんたに最後の仕事をしてくれって言ってんだぜ?自分でもわかってんだろ?幕引きの大事な時に・・・死ぬ寸前によ、箸なんか作ってんじゃねーよ。あとな、あんたの代わりにあんたの息子を、俺が更生させてやる。俺に椅子を作れ、名匠展に出した一寸構造を越える座椅子を削れ !!」


石田春吉の声を遠くに聞きながら、

儂は遠くを見ている。
遥か昔の記憶を見ている。

『銀さんはすごいよ、あんたはすごい。誰が認めなくてもあしだけは一番それを知ってる。それじゃダメですか?ダメなのですか?』

善次郎・・・。

『父さん・・・。俺は決して父さんを許さない。あなたの言う家具を呪って生きてやる』


健一・・・。


背を向けた息子の後ろ姿。

遠くなって行く。

健一・・・。


「一つ最後に聞きたい」

「なんだよ?」

石田春吉。

ふてくされたような顔。腕を組んでふんぞり返った小さい体。
そうか。
この若造は・・・
お師匠に似ているのだ。

「お前は健一のなんだ?」


ヒュウと風が一迅、
土間を抜けて行った。

「俺が?
武藤健一の?
何かって?」

石田春吉の唇がゆっくりと持ち上がる。


儂はその答えの予感に頭を下げる。


「俺は奴の・・・・」



*******************


半月後。

外は細かい雨が降っている。
その恵みに打たれて、
新緑は色鮮やかに濡れているはずだ。

儂の目はもうほとんど見えない。

この数日、何も口に出来ていない。

それでも・・・。


わき立つ山の匂い。
遠くに渓流のせせらぎ。

儂の鼻と耳はまだ辛うじて使えている。


なによりも・・・。

儂の手が・・・。
まだこうして動いておるのだ。

シウリ桜の削れる音。

仄かに香るシウリの匂い。
長く乾燥した木が削れる感触。

手元の座椅子の木取りと荒削りは、もうほとんど完成している。何のミスもなく、あっという間に終わってしまった。それはそうだろう。なにせ40年間かけて、頭の中で何千回と繰り返してきた作業なのだから。

ここからは、あれだ。


頭の中のディテールと、こいつを重なり合わせていく作業だ。思う存分カンナを使う。それは心の泡立つ作業だった。


一つ削って友を削ぐ。

一つ削って親を削ぐ。
一つ削って子を削ぐ。

己は削げるのか?

愛は削げるのか?

刃が鳴っている。

刃が鳴っている。

そして、儂はシウリと2人きりになる。

世界に・・・立った2人でポツンと居る。

神木よ、神居よ。

お前は彼の大地でどれだけ生きた?
・・・。
そうか。
これがお前の記憶か。

ここは?大風か。

辛かったろう。

ここは?寒波か。

苦しかったろう。

ここは?長い春だな。

楽しかったな。
この葉影で鳥は歌ったか?
この枝を栗鼠は走ったか?
この根股で熊が寝たのか?

ああ。ここは?

これがお前が倒れた原因だな。
悲しかったな。
くやしかったろう。

大丈夫だ。

儂が全部削り出してやる。
その想いを形にしてやる。
そして。
最後に残るものがあるはずだ。
儂の様にお前にもあるはずだ。

それを儂に見せてみろ。


どこだ?

その記憶は何処にある?
怖がるな。
儂にまかせておけ。

ああ、それとな。

一つ約束をしてくれ。
お前だけはどこにも行くな。
お前だけは儂を置いて行くな。

どうしたここをこんなに赤くして。

ああ、儂か。
儂の口から垂れてしまったか。
すまん。
今拭くからな。

刃が鳴っている。

刃が泣いている。

詩織。

愛。

儂は今、深海にいる。

蒼く昏い海底に沈んで行く。
儂はそこで一筋の光を探している。

お前のどこかにそれはある。

必ずあるのだ。

あとどれくらいだ?

どのくらいで見つけられる?

二日か・・一日で終わるか。


それともたった今か。

あとひと削りで見つけてしまえる気もするし、永遠に見つからない気もする。

しかしここからだ。


いずれにせよ、ここから、


儂の長い旅が始まるのだ。



つづく

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