2015年7月26日日曜日

刃鳴り 3 「名匠展」


若き天才、石田春吉率いる
インテリアショップCOREの一代勃興史
「東京インテリアショップ物語」番外編 5 

稀代の削り師 武藤銀次郎  ]



sub-episode 5



「刃鳴り」


                           
3
「名匠展」


「あのシウリ桜はお前にはやれん」

旭川、神居村。
師匠は腕組みをしたまま俺を睨みつけた。

「名匠展ですよ?」
「それがどうした?」
「俺が削るんです」
「だから、それがどうした」
「師匠っ !!」

窓の外。
工房小屋は半分くらい雪で埋まっている。
その重みで小屋がギシギシと軋んでいた。
ひょうひょうと雪が鳴っている。
達磨ストーブの上の薬缶がカタカタ音をたてている。

俺はその場に膝を突いた。
自分の手を床に置き、その手の上に頭を付けた。

「師匠っ。お願いです。あれを削らせて下さい」

屈辱だ。
俺の自尊心がギリギリと歯ぎしりしている。
心が破裂しそうだった。

しかし・・・。
負けたくないのだ。
三島兄弟にも、
鳥居左膳にも、
今井専修にも、
善次郎にもだ。

十中八九俺は負けないだろう。
そんなことは俺が一番知っている。
しかし俺は100%で勝ちたいのだ。
完膚なきまでに・・・
勝ちたいのだ。

師匠は俺を見下ろしている。
俺の目の前につま先が見える。
俺はその目を外し、もう一度頭を床に擦り付けた。

「銀次郎・・・」
「はい」

静かで優しい声だった。

「詩織は無事なのか?」
「今、検査入院しています、さっきそう言ったはずです」

なぜここで詩織なんだ?
今俺は名匠展の話をしている。
その材料の話をしている。
関係ないではないか?
頭が混乱した。

「銀次郎・・・」
「はい」

窓枠がギシッと音を立てた。
「お前では足らんのだ」
小屋がミシッと音を立てた。
「あのシウリはお前にはやれん」

「つっ・・・」

その瞬間、俺の体が、爆発した

「てめえっっ」

師匠に殴りかかる自分を、
もう俺は止めることができなかった。


*********************



2年後。



1955年。
1月。

冷えきった板床に置いた足が痺れている。
しんとした工所に木を削る音が響く。
手の中の鉋(カンナ)をギュッと握りしめる。
欅(けやき)を削っている。
俺は今日も、ただ黙々と座椅子を削っている。




ひと月前、
病院に呼び出された。

「まだがんばっています。
しかし、本当は未だもっているのが不思議なくらいです」

奥村という若い医師が病室の前の廊下で俯きながら言った。
俺は下を向くしかなかった。

「最後はご自宅で・・・」

初めて詩織が倒れてから2年が経った。
スキルス性乳がん。リンパ転移。脳転移。
広尾、虎ノ門、築地。
何度も病院を替えた。
無駄だった。
詩織はどんどん痩せ細って行った。

ベッドの横に健一が座っている。
5歳の背中が悲しみに縮んでいる。
俺はその横に座り、眠る詩織を見つめた。
ここ数日、詩織は目を開けてくれない。

遠く旭川で。
詩織が生まれた朝を思い出した。
俺の背中に乗ってはしゃぐ詩織。
学校までの長い道のり。
引いて歩いたその小さな手。

俺は最初からこいつと一緒にいた。
ずっと一緒に・・・。

善次郎と細君の公恵さんが病室に入って来た。

「銀さん・・・」
「ああ」

善次郎が健一の肩に手を置いた。
健一は善次郎の家に世話になっていた。
俺と別に暮らし、健一はいつの日か笑わなくなっていた。
本当は今こそ父親である俺が必要なのだ。

しかし、
俺にはそれが出来なかった。
どうすれば良いのかも分からなかった。
木工所と病院の往復の毎日。
家事など出来るはずもない。

『健一と荘八は歳も近いし、気にしないでください』

そう言ってくれた善次郎と公恵さんに甘えた。

「健一君、学校、行こうか」

公恵さんの声に健一が言葉もなく立ち上がった。俺を見ることなく俺の前を通り過ぎて行く。俺に似た細い目が眠そうに細められて空を見つめている。その目からなんの感情も見て取ることはできなかった。

病室には俺と善次郎が残された。

「銀さん、名匠展のエントリーなんですが・・・」

善次郎が鞄から書類を出した。
名匠展?
遠い昔の話のように聞こえた。
そうか、あれから2年。
もうそんな時期になっていたか。
しかし、今の俺に何を削れというのだ?
木工所の仕事をこなすだけで精一杯だ。
それはすべて病院代と健一の養育費に消えて行く。
あとは酒代だ。
酒量が増えた。
一日中飲んでると言ってもいい。
俺の胃は常に軋んだ音を立てている。
このまま俺も死ねばいいのだ。
そう毎日思っている。
俺はもういい。
そんな力は残っていないのだ。

「善、俺はもう・・・」

言いかけたその時。

「日本・・・」
鈴のような声がした。
その声に振り向いた。

「詩織?」

詩織の手が動いた。
宙をさまよい、パタリと布団に落ちた。
詩織・・。

詩織が目を開けていた。
目がキョロキョロと動いている。
俺を探しているのだ。
俺はベッドに駆け寄った。
詩織の手を握る。

ひからびた詩織の口が薄く開いた。

「銀さん・・・」
「ああ。いるぞここに。
俺はここにいる」

・・・はい。はい。
詩織が微かにそして小刻みに頷いた。
俺の手を握る手。
その手に微かに力がこもった。

「銀さん、お願いがあります」
「なんだ、言え」

「名匠展で日本一になってください」

『銀さんの腕を世界中に知らしめるのでしょう?なら、私が横でそれを応援しなくてどうするのです』

「詩織・・・」
「あとね・・・健一が心配です。あの子・・・」

口がパクパクと動くが声が出ない。
それが恥ずかしいのだろう。
詩織はちょっとはにかんだ。

「ゆっくりでいいですよ、詩織さん」

善次郎が横で声をかけた。
その声に詩織は何度も頷いた。
気づくと病室の隅に医師の奥村が立っていた。
奥村が俺に頷いた。
聞いて上げて下さい。

「あの子、友達ができないの。頑固なの。だからね、誰よりもあの子には・・・友達が必要なの。あの子にはね、特にね、ともだちがいないとだめなの。銀さんと同じなの。ともだちね」

俺はベッドの鉄パイプをギュウッと握った。

「あとね、ごめんね。ぎんさんの日本一をみれなくて、あとね、ごめんねけんいち、ともだちね。しっかりね。あとね、はるになるとね、さくの。きれいなきいろいはな。すきだなわたし、ね?おとうさん?ぎんさん?」

癌に犯された脳。
思考回路が混濁しているのだ。
奥村医師が俺と銀次郎に目を投げた。
押し退けられた。
奥村が用意されていた酸素吸入器を詩織の口に当てた。

救急処置室に運ばれる詩織を見送った後
俺は廊下で踞った。
善次郎が俺の肩に手を置いた。

「善 !!」
「はい」
「材料だ」
「はい」
「東北欅(けやき)でいい。大量に用意しろ」
「はいっ」

*******************

そして・・・。
俺は今日も、ただ黙々と座椅子を削っている。

繊維に目を凝らす。
どこだ?
ここか?

木には時折、繊維が寄っている部分が出る。

それは、その木の独自の性格だったり、気候風土の具合に因るものだったり、地中の養分に左右されたり、または、良性悪性問わず、ウイルスの問題などで発現する。

そして、その寄り固まった繊維部分の様子が斑点状や縞状だったり、牡丹に似ていたり、火焔に見えたりと、不思議で美しい紋様を形成するのだ。

その現象を俺たちは一口にまとめて「杢」(モク)と呼ぶ。

これが単なる木目と「杢目」の違いである。

高級材の楓(かえで)の「バーズアイ・メープル」や欅(けやき)の「ボタン杢」などがその代表例であるように、つまり「杢」とは概ね素材の美しさ=意匠(デザイン)として語られる。この杢が出ているから、美しい、とか、これといった杢が出ていないから取り柄がない、などとというように。

しかし
銀次郎は見た目のデザインで杢を探しているわけではなかった。盤木を使ったテーブル材やキャビネットの扉板だったら杢を意匠として用いて作品を飾ることも考えられる。だが、今、作っているのは脚付き低座椅子だ。椅子は構造と造形が全てだと思っている。椅子に女々しいお飾りなんて必要ない。

銀次郎は優秀な外科医のように、材に指を置いて杢を打診する。材の上を指で、つうっとなぞっては止める。また動かしては止める。

木目の間の雲状の霞。
細かく移ろう組織の変色。
青みがかった細胞の澱み。

銀次郎の目と指はその変節を逃さない。

ここぞという箇所に型紙を当て、チョークを入れて行く。

木取り。
木目の方向、そして複雑きわまりない杢目の緩慢を読み解き、欅(けやき)を帯鋸で切り出して行く。

繊維の凝りを抽出し効果的に用いれば、誰も見たことのない細い椅子を組み上げることが出来るはずだ。

欅(けやき)という固いが鈍重な材の一般論とはまったく異なる、細く美しく流麗な椅子を作れるはずなのだ。

一寸(約3cm)だ。
それ以上ではいけない。
俺の椅子でなくなってしまう。

仕口(木と木の接合部分)以外のすべての部位部分を一寸の太さで構成してやる。

一寸椅子だ。

椅子の必要条件は4っ。

軽きこと。
強きこと。
座り易きこと。
美しきこと。

この中で特に厄介なのが、軽さと強さである。

椅子は軽くしようとすれば脆くなり、強くしようとすると重くなる。軽さと強さは、もともと反比例する要素なのだ。

その逃げ道として、材がある。

例えば、100年でわずか直径50cmにしか太れない木がある。このような材は100年で1Mを越える材より強靭だ。また、階段材や野球のバットに使用される、トネリコ(タモ)のように種として木質そのものが強くしなやかな木がある。このような材は細く攻めることが可能なのである。

だが、と銀次郎は思う。
しかしそこには俺が居ないではないか。
材の強さは俺の腕に因るものではない。
俺は俺のやり方でやる。

材には頼らない。

『奴の木工は力づくだ。木を押さえつけてもいい作品は生まれんよ』

今井専修の声が脳裏に蘇る。
お前ら凡人はそうだろう。
しかし、俺は違う。
お前らと俺は違うんだ。

繊維だ。
杢だ。
寄り固まった部位のみを抜き出して圧倒的な細さを実現してやる。
極限まで細く美しく、そして強い椅子を、俺の木取りの技術で作る。

詩織のような椅子を。

そう。
あの時だ。

『細いな』

詩織にそう言ったことがある。
旭川で祝言を挙げた日の夜であったか。

淡い灯りに透けた詩織が恥じ入るように目を伏せた。
すみません・・。
すぐに涙ぐむ。
いや、そうではない。
違うぞ。
細くてきれいだという意味だ。
そしてお前は強い。
ここぞという時にぜったい引かない強さを持っている。
お前は細くてきれいで強い。
俺はそんなお前が大好きなのだ。
だが俺にそんなセリフを口に出来るわけがない。
代わりにこんなことを言った。

『細くて強い椅子を作るか・・・』

詩織がきょとんとした顔をした。
『なんですか、それ』
詩織の泣き顔が一転する。
『銀さんの頭はいつでも木工ですね』
鈴を転がしたような声でふふふと笑った。


その詩織が・・・。
ひからびた唇で。
かさついた声で。
細い体をさらに細くして・・・。

・・・言った。

『名匠展で日本一になってください』

俺に日本一になれと言ったのだ。

あの時ふいに・・・。
俺の前に長く見失っていた方向が現れた。
詩織がその行く先を指してくれた。

俺はそこに行く。
必ずそこに辿り着く。

と、その刹那。
手の中の鉋(カンナ)が音を出した。
ピィィィィィン。

鳴くか。
俺の代わりにお前が鳴くのか。

インインイン。

刃が鳴っている。
刃が泣いている。

そして・・・。
それに呼応するように。
俺の胃から、肺から、心の臓から何かが吹き出した。

口からそれが迸り出た。

銀次郎が終わらぬ咆哮をあげた。

************************

1955年4月。

青山外苑前。
碧々と葉をつけた銀杏並木の街路は人で埋まっていた。

絵画館の特設会場。
入り口の門に大きく「名匠展」の看板が掲げられた。

会場には36の台座が用意されていた。
その上に全国から集められた作品が乗った。
上には大きく白い布が被せられている。

会場が無数の人間の声でざわついていた。大々的に前宣伝された効果だった。全国の木工所、メーカーなどの関係者、一般観客、新聞社、ラジオ局、TV局、関連企業の社員たち、皇族まで揃っていた。1000人以上集まっている。そして未だ続々と門をくぐって集まってくる。

「銀さん、大丈夫ですか?」
善次郎がフラフラの俺を気づかった。

今朝だ。
今朝ようやく出来上がった。
出来上がったそれに毛布を巻いて、そのまま自分でリヤカーを引いてこの会場に入れたのだ。

「ひどい顔ですよ」

何を言うか。
詩織もまだ頑張っているんだ。

「健一は?」

俺の問いに善次郎が顔を伏せる。

「学校に行きました。一応来いと言ったのですが・・・」

そうか。来なかったか。

あれから詩織の所には一度も行っていない。
行けなかったのとも行かなかったのとも違う。
行っていない。
ただそれだけだ。
健一の幼心は、それに反抗心を持ったのだろう。
当然のことだ。

と、そこへ盲目の老人が会釈をして寄って来た。

「銀次郎さんと善次郎さんで?」
「はい。そうですが」

善次郎が答える。

「鳥居と申します」

鳥居左膳。
高島屋製作所の代表者。
ウインザーの名人だ。

「ああ。これは鳥居さん、初めまして・・・」

善次郎と鳥居のやり取りを遠くに聞きながら、俺は射すような強烈な視線を己の背中に感じていた。刃物のような視線。振り向かずとも誰か分かっている。しかし・・・。そういうわけにもいくまい。意を決して振り返った。向こうの客席に体の小さな男が腕組みをしてこちらを睨んでいた。

師匠・・・。
出品者帳簿に師匠の名はなかったはずだ。
わざわざ見物に来たというのか?
いや・・・。

目が合った。

遠くに立つ師匠の目が言う。

鬼の子め。
お前の鬼が・・・。
ワシの一人娘を、
詩織を喰らいおった。
違う。
違わん。
ワシはお前を許さんぞ。
師匠の目がギラギラとそう語る。
お前を許さん。
見ろ、この通りだ。
師匠の横。

「!!」

健一が立っていた。
健一が師匠と同じ目で俺を睨んでいる。

やめろ!!
師匠!!
健一に何を吹き込んだ?
健一をこの世界に引きずり込むな。
この道は・・・。
修羅の道は俺で終わりだ。
これで終わりにするんだ。

アナウンスが入った。
名匠展が始まった。

**************************

次々と布が取られて行く。
その度に歓声が上がる。
ボクシング会場のようだった。

椅子の品評会には場違いの歓声だ。
しかしこれが復興の声なのだ。
発展の地響きなのだ。
一度這いつくばった日本が今再び立ち上がろうとしている。
立ち上がった先に向かうべき場所。
それは軍拡が行き着く方向ではない。
暮らしを再興する。
それには経済だ。
暮らしの経済・・・。

その象徴は家電だ車だ家具だ

みなそれが分かっている。
だから心が一種異様な興奮に湧くのだ。
この歓声や地響きが雄弁にそれを語っている。

この先・・・。
日本は必ず豊かになるだろう。


一作品に5分、前持って用意された作者による作品意図の解説が入る。佐藤一平、菊池康平など木工家具の頂点とも言うべき審査員が一点一点を間近で確認する。カメラのストロボが焚かれるたびに目の奥が白くなった。

ひと際大きな歓声が湧いた。
善次郎の座椅子だった。
水楢の瑞々しさがよく伝わる椅子だった。
モチーフは明か。
得意技の柾目取り。
どう木取りをしたのか虎斑が椅子全体を被い、それが孔雀が羽を開いたように、放射状に広がっていた。

美しい。

人ごみの中に三島兄弟を見つけた。
が鳴り声を上げて善次郎の椅子をこき下ろしていた。

続けてまた歓声が湧いた。
鳥居左膳のウインザーだ。
細い無数のスピンドルが背骨の形状のS字にうねっている。これは・・・曲げではない・・なんとあの細いスポークをS 字に削り出したのか。一本一本のスピンドルが別形状のS字を描いている。

人間工学の粋だ。
すごい技術だった。

肩を叩かれた。
善次郎が後ろに立って眉根をひそめていた。

「今、会場に連絡が入りました。もうそろそろダメなようです」

詩織・・・。

「俺はここを動かん」

見届けるのだ。
俺は俺を見届けなければならない。
奥歯がバキリと音を立てて潰れた。
それを地面に吐き出した。

会場がどよめいた。

三島兄弟。

見事なフォルム。
錆色のチッペンデール。
マホガニーがネットリとした鈍い赤みを晒している。
俺はゴクリと唾を飲み込んだ。

しかしあれは何だ?
まるで本物だ。
200年以上使用された骨董か?

俺は席を蹴って離れ、展示に駆け寄った。

目の前のチッペンデール。
ぞくり。
と総毛が立ち上がった。

古式骨董ではない。
そのように似せられ新しく作られたものだ。

一体何なのだこれは?

剥がれ、色褪せ、傷痕、背の摩耗、足先の劣化、アームの先のテカリ。

これは・・・。
加工だ。

新しく作ったチッペンデールを骨董に仕立て上げたのだ。

塗装でやったのか。

すごい。

新品の椅子には味がない。
俺たちプロは知っている。

良い材、善い仕口(つなぎ目の構造)で作られた椅子は100年以上の時を越える。そして、その年月を経た椅子だけが、そこに刻まれた経年変化と共に至高の椅子となるのだ。

奴らは、それを新品を用いて骨董に仕立てたのだ。

三島兄弟は見事な椅子師としての腕と共に、一つの可能性をここに問いかけた。

塗装だ。

すべてのモノがピカピカの新品ならいいというわけではない。状況や場合次第では、このような骨董加工を必要とする場所も出てくるだろう。裁判所の造作などはどうだ?国会図書館は?そのような威厳を求められる空間には打ってつけの加工法ではないか。

これは家具以外にも無限に使える。
この表現方法は・・・。
この業界の、いやこの国の産業の宝となるだろう。
これも一つの意匠なのだ。

観客がどよめいている。
これが普通とは違うと見抜いている。

何か新しく抜本的な切り口だと、素人であっても、いや、素人だからこそ、大きな可能性を肌で理解するのだ。


「おう、銀次郎」

いつの間にか隣に立った三島新一が俺を小突いた。

「どうだ?」
「・・・しかしこれは・・」
「おっと」

新一は言いかけた俺に手をかざし、制した。

「俺らは俺らの名誉などにゃ興味がねえんだよ」

そうだ。
この椅子は品評会向きではない。
この兄弟が目指したもの。
それは・・。

「芝だ。俺らは芝を背負ってる」

会社の企業広告だ。

芝はこういうこともできる。
表現の幅が他所とは違うと。

つまり、名匠展の舞台で、三島兄弟は己を捨てて会社の広告を打って来たのだ。この2人が、あの気性を押さえつけて企業人に徹しただと?そうなると底知れないのは芝だ。そして芝の三島兄弟はその芝と共に伝説として語られることになる。個人を捨てて企業に徹し、そうすることで個人では行き着けないほどの栄光を結局・・・個人が手にすることになるのだ。

「お前が背負ってんのは自分だろ?だからお前はちっぽけなんだよ」

言い捨てると兄弟が2人同時に背を向けた。
俺は何かを言いかけて口を噤んだ。

会場では今井専修の椅子がお披露目されていた。

藤の曲げ木椅子。

美しい椅子だったが、観衆はさほど関心を示していなかった。
奇麗すぎるのだ。
この数時間で目の肥えてしまった人間には凡弱に映るのだろう。

俺は辺りを見回す。
師匠の姿が見えなかった。
健一もどこかへ消えていた。
いや、どこかへではない。
病院だ。


「三越製作所、武藤銀次郎・・・」
と、アナウンスが俺の名を呼んだ。
「作品名、[深海] 」

俺の作品の白布が取られた。

ついに。
一寸角の構造が世に晒される・・・。
その瞬間。

俺は幻視を見た。
台の上には椅子ではなく
俺が立っていた。

目をこすった。
もう一度目を凝らす。

欅の低座椅子が乗っている。

なんだ、今のは・・・?

そうだ。
あれが俺の椅子だ。

見よ !!
あれが俺の・・・。
あれが・・・。

あれ・・・?

「あ・・・?」

俺は声を漏らした。

「違う・・・」

この椅子じゃない。
突如。
その直感に襲われた。

俺が削りたかったのは。
あれじゃない。

なぜだ?
どこを間違えた?
わからない。
どこも間違えていない。

しかし・・。

なんということだ。
この椅子には・・・。

魂がない。

なんということだ !!
俺は幽霊を作ってしまった !!

************************

しかし、
会場に今日一番のどよめきが起こった。

そのうねりが大きく広がって行った。

審査員の佐藤一平、菊池康平が、椅子の数cmの距離までその顔を寄せた。

佐藤が軽く仰け反った。
菊池がポカンと口を開けた。

「なんだこりゃ?ハッタリだ。この・・・」

叫びかけた三島新二の肩を新一が引っ張った。首を振りながら、俺の椅子の個所個所を新二に指で示した。そこをしばらく凝視した新二の背中が微かに震えた。

鳥居左膳がしきりに俺の椅子をなで回している。盲目の指が杢の凝りとその配置個所を言い当てて行く。やがて、鳥居左膳も、やはり首を振ってうなだれた。

その向こう。
今井専修が遠くで俺を見つめていた。
その唇が微かに笑っていた。
そして。
静かに右手を上げる。
遠くから、その拳を俺に突き立てた。

「銀さん !!」

善次郎が俺の腕を引っ張っていた。

「善・・・」

お前、顔が土気色だぞ。
善次郎が何か言っている。
やがて体を揺さぶられた。

なんだよ。
どうした。

そんなにしなくても分かっている。

死んだんだろう?

詩織が・・・。

たった今。
死んだのだろう?

****************************

灰色の視界。
灰色の音。
灰色の匂い。

気づくと世界は灰色に沈んでいた。

俺はそんなおかしな世界にいた。

灰色の木の投票箱が開けられた。灰色の木札をだれかが集計している。俺の名が呼ばれた。金賞だと言われて、灰色のトロフィーを渡された。俺を灰色の歓声や拍手が襲った。小さい箱を渡された。開けた。小さな灰色の鉋がコロリと転がり出て来た。灰色の俺はそれを掴んで、首を傾げた。右に傾げ、左に傾げ、それでも意味を成さないので、もう一度右に傾げた。灰色の俺は灰色の壊れた人形のように何度も首を傾げた。なんだこれは?詩織?これはなんだっけ?黒柿の鉋(カンナ)だ。それは分かっているんだがな。俺はふらふらと足を前に出した。あれ?詩織?ちょっと待て。ちょっと教えてくれ。どうして俺はこんな所に居るのだ?そもそもお前はどこに行くのだ?隣で善次郎が叫んでいる。俺に向かって大声を出している。病院?分かっている、行く。行くさ。だからそんなに急かすな。しかし、病院は少し怖い。恥ずかしいことなのだがな、詩織、お前まで灰色になってしまっていたらと考えるとな、俺はとても怖いのだ。ふらふらと進む。善次郎が俺の背中を叩いている。待て。ちょっと待て。俺は今大事なことをしなければならないのだ。今思いついたのだ。大事なこと。ほら、これだ。この幽霊だ。目の前のこの低座椅子がすべての元凶なのだ。この椅子は俺だ。つまり俺が幽霊なのだ。だから、俺が削ったこの幽霊椅子、これをな、俺ごとこうして・・・。

会場が湧いた。
金賞に輝いた男が自分の作品を頭の上に持ち上げたからだ。
全員が立ち上がり、再び拍手を贈った。
会場に割れんばかりの賞賛が渦を巻いた。

高々と掲げられた椅子。
ピタリと頭上に止まったその椅子がふいにユラリと傾いだ。
その時。
その痩せぎすの男が、その椅子を床に叩き付けた。

嫌な音をマイクが拾った。
狂気の音が大音響で響き渡った。
拍手がパラパラと止まる。

そして。
男が、もう一度、椅子を拾った。
再び地面に叩き付ける。

会場が騒然となった。
記者たちのストロボが一斉に焚かれた。

ああ・・・。
壊れないな。
幽霊だからかな。
いや違うな。
そうだ。
壊れないように杢を木取ったからだな。
ちょっとやそっとじゃ壊れない。
そのように出来ているのだ。
でもこうするとどうだ。
こうならどうだ。

善次郎ががむしゃらに俺の背中にかじりついている。
泣きながら銀さーん銀さーんと叫んでいる。

泣くな。
善。
泣くな。
こんな世界は壊さないとな。

悲しみに沈む5歳の背中。
俺を睨みつける細く眠い目。

泣くな。
健一。
泣くな。
お前はきっと強くなる。

そして・・・。

詩織。

どうやら・・・。
俺はな・・・。

どうやら俺は何かを大きく間違えていたようだ。