2017年6月3日土曜日

虹色かぶとむし






雪というものがあるらしい。その雪というものを見たかっただけなのだ。でも私の体は、今やもう、ちょっとも動かない。夏の終わりの風の中。私はゆっくりと私の終わりを迎えている。私は祈った。誰か。私の夢を・・・。

大きな木の下にポトリと落ちたかぶとむしの卵。殻を割って、僕はぼんやりと風の匂いをかぐと、すぐに、むぐむぐと土を掘りはじめた。かすかな手足で何センチもぐっただろう。僕はぐったりして体を動かすのをやめた。まわりの兄弟たちも動かない。みんなここで冬を越すのだ。

ザクッザクッと音がした。尾の白い鳥が僕のまわりの土をついばんでいる。そばにいた兄弟が土から掘り起こされて鳥のくちばしに咥えられた。兄弟は悲しそうな顔で僕を見ていた。僕はしびれた手足をもう一度動かした。もっと奥へ。鳥のくちばしの届かないところへ。生まれたばかりの僕の記憶。あるはずのない過去の記憶。僕は雪を見たいんだ。生まれたばかりの僕がなぜそう思ったのかはわからない。とにかくそう思った。僕の手足は兄弟のそれよりも、ほんの少しだけ長かったみたいだ。それが命を先へつないだ。僕は生き残った。

時間がおぼろげに過ぎていく。ある日、土の中で声がする。もぐらが僕を見ていた。やあ。もぐらが言った。こんにちは。僕は答えた。あなたは誰?? 私が誰というよりも、私は君のことを知ってるよ。もぐらが鼻をひくひくさせて言った。ぼくのこと? そうさ。正確に言うと君のことではなくて、君のお父さんのことだけどね。何を知ってるの? 君は虹色かぶとむしさ。虹色かぶとむし?? そうだ。普通のかぶとむしとは違うのさ。君はきっと雪をみたいんだろう?? なんで知っているの? 私はもうずいぶん長く生きている。だから、大抵のことは知っているのさ。あの・・もぐらさん、僕は普通とどう違うの?? もぐらはちょっと言葉に詰まった。そして、ふいっと興味をなくしたかのように僕に背を向けて、知らないよと言った。僕が太陽を見ることができないのと同じで、君も雪を見ることなんてできないのさ。

それでも僕は嬉しかった。僕は僕を知った。虹色かぶとむし。それが僕だ。僕はうきうきして、体を伸ばしたり丸めたりした。僕は虹色かぶとむしで、いつか雪を見るんだ。それが僕なんだ。もぐらは無理だと言ったけど、きっと僕にはそれができる。なぜなら僕が虹色かぶとむしだからだ。

時間がおぼろげに過ぎていく。ある日、土の上で声がした。おかしいなあ、この辺に埋めといたはずなんだけどなあ。ザクッザクッ。あたりの土が掘られていく。あ、あったあった。崩れた土の隙間からしまリスが見えた。どんぐりを胸に抱えていた。おや?? しまリスが僕をのぞきこんだ。君は・・。しまリスが首をかしげた。虹色かぶとむしです!! 僕は胸を張って答えた。ふーん。雪を見るために生まれてきました!! リスが前歯をカチカチさせて笑った。それはとても無理だと思うよ。どうしてですか?? だってカブトムシは夏の終わりに死ぬものだからさ。そう決まってるんだ。生きるものには運命というものがあるのさ。それに逆らっちゃぁ、いけないよ。しまリスがふと何かを思い出したように上を向いた。そういえば同じようなことを言っていたかぶとむしがいたなぁ。君のお父さんかい?? 僕のおとうさん・・・。彼も自分のことを虹色かぶとむしだって言っていたよ。僕のおとうさんは雪を見たの?? しまリスは口を曲げながらそれに答えた。いや。普通に死んだよ。夏の終わりに。僕はカッとなった。そんなの嘘だ!!! 嘘に決まってる!!! 僕は体を反転させた。土を掘った。だって虹色カブトムシなんだぞ。普通とは違うんだ。特別なんだ。僕はがむしゃらに土を掘った。おおい。後ろでしまリスの声がする。あまり下まで潜ると出てこれなくなるぞ。うるさいっ。僕は掘った。掘って掘って掘りまくった。気づくと土の上の音がまったく聞こえないところまで来た。土の中はシーンと静まり返っている。いいさ。僕は特別な虹色かぶとむしなんだから、特別深いところまでもぐっていいんだ。

時間がおぼろげに過ぎていく。ある日僕の体が硬くなっていた。どうしたんだろう。なにかがおかしい。しだいにあたたかい気持ちになってきた。おかしいけど、どうやらこれは悪いことじゃないみたいだぞ。僕は今なにか新しい成長しているんだ。僕は虹色かぶとむし。ゆきを・・みる・・んだ・・・。

そして僕は蛹になった。

僕が生まれて、僕が死ぬ、とてもありふれた運命、そのさいごのさいごに、夢はあるのでしょうか愛はあるのでしょうか希望はあるのでしょうか。

ある日、背中がピリリと破けた。ついに僕は大人になるんだ。僕は土をかき分けた。地上へ!! 深くまでもぐっていたからとても大変だった。けれど、これだけの長い時間を僕は待ったんだ。こんなのなんでもない!! へっちゃらだ!! 僕は地上に向かってあらん限りの力を振り絞った。最後の土塊をかき分けた時、僕は虹色の羽を大きく開いた。見てくれ、世界よ、これが僕だ。僕は虹色かぶとむしだ!! よし飛ぶぞ。羽を震わせた。しかしうまくできなかった。体が動かない。しょうがないから、僕はもぞもぞと足を動かして前進した。目の前の大きな木にしがみついて、登って行った。僕はあたりを見回した。どうやらこの世界は、土の中でみんなに聞いていた世界と、だいぶ違うようだった。木に緑の葉が付いていなかった。太陽が熱くなかった。風が冷たかった。そうだ。僕は夏を通り越して生まれてしまったのだ。

それでも。ずいぶん経っても僕は生きていた。木の葉陰でひっそりと生きていた。毎日がとてもとても苦しかった。僕は虹色かぶとむしだから、生命力が強い。だから苦しい世界で死ぬことも許されなかった。冷たく凍った樹液をなんとか啜りながら僕はつらい毎日過ごした。ねえ、僕はどうして夏を通り越してしまったんだろう。ある日、冬支度をしている一匹のアリに聞いてみた。知らないよ。アリは忙しくしていて、とてもそっけなかった。でもさ、雪を見たかったんだろ?? 神様がその願いを叶えてくれたんじゃないのかい?? 僕はそれを聞いて途方にくれた。それが本当なら、なんてことだ。僕は・・・そんな夢を見なければ良かった。だって毎日がこんなにもつらいんだ。

分厚い雲が空をおおっている。僕の体はあおむけにひっくり返っている。僕の6本の脚は鉤型にカチンと曲がり、もう動かない。ずっとさっきから、僕は空を見ている。少しづつ薄れていく意識の中で、鉛色の空を見ている。誰かに託された夢。その夢を引き継いで自分のものにした。本当だったら叶わない夢。残酷な夢。その夢が今叶おうとしている。でも・・・。今、僕は、この夢を叶わせてはいけないと思っている。この夢が叶ってしまったら、僕は、とても残酷な僕のこの人生を肯定してしまうことになるからだ。雪が来る前に。雪を見てしまう前に・・・僕は・・・死にたい。

一粒。
ホロリと雪が舞った。やがて、無数の白い結晶が天を埋め尽くす。虹色かぶとむしの濁った瞳に、固まった手足に、乾いた腹に雪が落ちる。

白くて優しくてあたたかい雪の中に。
虹色かぶとむしは深く深く落ちていく。


しまリスが雪の中にぴょこんと飛び出した。ふと思い出したように耳をそばだてた。雪の空を見上げた。そういえば、あいつ・・雪を見れたのかな。しかし、すぐに首を振った。まさかね。そう独り言を残して、しまリスは、白い野原に走り去って行った。



Webマガジン コラージより

http://collaj.jp/



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