2015年3月28日土曜日

僕らがお客様に伝えたいこと


2015年。

今年も4月から新入社員が入ってくる。
新人教育のスケジュールを立てよう。
そう思ってデスクでPCを開いた。
名刺の渡し方から、接客の方法論まで。
何を作るか、どのように販売するか。
僕らがお客様に一番伝えたいこと。
それを新入社員に伝えなくてはならない。

キーボードを叩く手が止まる。
「一番伝えたいことな・・」

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僕らのルーキー時代。

僕らは茅ヶ崎の一号店に続き、その半年後に二号店を鵠沼に出した。江ノ島まで歩いて数分という海の街。その小さな小さな商店街の精肉店跡地に50~80万もする高級ソファを並べた。今考えたらよくあんな暴挙ができたものだ。

とある2月の最終日。
僕らは困っていた。今日何かが売れなければ今月の店舗家賃が払えない。「大丈夫。今日は土曜日だし、今日ご来店される予定の見込み客もいるし、なんとかなるよ」威勢良く言ったものの、所と佐々木はどんよりした顔をしている。

pm3時。
見込み客Aさんから電話
「ちょっと用事ができちゃってさ、明日行くよ」

pm5時。
見込み客Bさんからのメール
「雪が降ってきそうだから、明日おじゃましますね」

雪・・だと?
顔を上げて外を見た。
窓の外が不吉にどんよりしていた。

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豪雪の海の街。
pm7時。
雪がどんどん積もって行く。
3人で呆然として眺めた。

所「店長ドア閉めましょう」
僕「だめだ。あと俺はもう店長じゃない社長だ」
佐々木「だって社長・・寒い」
僕「来るから、きっと誰か来るから」
所「だって・・こないよ」

所が正しい。商店街はどこも早じまい。
いつもたくさんいる野良猫すらいない。

「家賃が払えない」

僕がつぶやく。
三人で無言になった。

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pm8時。
閉店時間。

その時、
バーンッとドアを開いて
一人の紳士が入ってきた。

「い、いらっしゃいませ」

(あわわわわわわ)
(ホントにだれか来た)
(神様だ)
(奇跡だ)
後ろで2人がひそひそ話している。

「寒い中ありがとうございます」
黒くて艶々したコート。
高そうなハットを目深にかぶっている。
紳士は雪をパタパタ払いながら、
太いバリトンで僕にこう言った。

「これをもらえるかな」
紳士が指をさした商品をおずおず見る。

88万のソファ。

「明日客が来るんだが、
応接間のまに合わせに必要なんだ。
駅前の量販店がもう閉まっていたから
これでもいいかと思ってね」

まに合わせ?
これでもいいか?
すごく引っかかった。

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僕らがなぜ高価な家具を作って売るのか。
「素材」と「作り」を妥協したくないからだ。
デザインも大事だ。
しかし、
良い素材を使えば一生ものになる。
そしてそんな素材を使って、
腕のいい職人が作れば、
家具は時を越えて人を幸せにする。
それはブランド戦略の以前の話だ。
売ればいいってモノじゃない。

もちろん量販店が悪いわけではない。
でも僕らとは切り口がまったく違うんだ。

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「今日運べるかな」
「えーと。お客様。」

僕はカラカラになった口を開いた。

「今日僕らで運びます。でもその前に
このソファについてお話をしてもよろしいでしょうか」
「話?」
「あの、素材と作りの話を・・」
「いらん」
「はい、いらん。へえ?」

お百姓さんみたいな返答になった。
しどろもどろになっていたら、
その紳士が踵を返した。
「もういい、いらん」
早かった。引き止める間もなく、
紳士はお店を出て行ってしまった。

「ん?」

僕は接客用の笑顔のまま、ゆっくり後ろを振り向いた。奥から顔を出して覗いていた所と佐々木が丸く口を開けていた。

「え?」「ん?」
「あれ?」

所「家賃が逃げた・・」

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新入社員に一番伝えたいこと。
それは販売店としていくら売るかではない。
「何をどのように売るかだ」

素材と作りに妥協をしない。
そうしたらモノの値段は必然的に高くなるよ。

でもね、
値段を語る前に
なぜこの素材を使っているのか、
どのような作りになっているのか、
それを一生懸命伝えようよ。
お客様の予算の10倍だって怖れちゃだめだ。
それができなかったら、
僕らが僕らである必要がないんだから。

僕らの会社はいつの間にか大きくなった。会議資料は効率性や粗利率やらで埋まっているね。昔と比べて妥協していることだってあるな。でもこういう想いだけは薄めたくない。

まあ、美談のように書いてるけど、
今思えば、あの時の僕の接客だって褒められたものではないよね。もっとスマートに伝えることは出来ただろうし、時には信念を曲げて販売しなければいけない局面だってある。店長ではなくて経営者なんだからさ。

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積もる雪に四苦八苦して、
僕らは三人とも無言でシャッターを閉めた。

僕「あのさ・・うまく言えないけどさ、
俺たちはこれでいいんだと思うんだよな」

所「なに威張ってるんですか?
プライドじゃご飯を食べられないんですよ?」

佐々木「そうだ、そうだ」

僕「ごめん。今から大家さんに謝ってくるよ」

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店の2Fの大家さん邸。
大家さんは笑っていた。

「明日、日曜日だからがんばって、野田さんの所はきっと大きくなる。だから自信持って!応援してるからね」

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2015年3月27日金曜日

AREA新店舗出します


「はい、次はここにご署名いただいて。社印ですね。ゴム印で結構です。ここに社長様の自著を。あ、あと裏に割り印を」

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表参道(みゆき通り)、ギャルソン・ビルの上で契約をしている。不動産契約だ。夏前にはまた新たにAREAの新店舗ができることになる。青山は3店舗目になる。

契約を終えて自転車に乗った。

表参道から外苑前のお店まで3分かからない。口笛を吹いて青山通りを走る。

旧フランフランの跡地にポルシェのショールームができていた。今東京はプチバブルだ。最先端の現場で体感している。

B.ブラザーズ本店の前で信号待ち。
振り返ると六本木ヒルズが威圧するようにそびえている。

イヤホンからはU2。ボーノのかすれた声。

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「全財産どころかこれだけ金借りまくってさ、この店ポシャったらよ」

13年前の自分の独り言を思い出した。
茅ヶ崎から東京に進出した当時。
AREA本店の不動産契約をした日の午後のことだ。

毎日不安で寝れなかった。
文字通り一睡もできなかった。

練りに練った理屈や戦略だと失敗する確率は60%。甘く見てもだ。

茅ヶ崎の身内からの電話にいやいや出た。

大丈夫か?

「大丈夫?なんだよ大丈夫って。
失敗?しないよ。するわけないだろ」

身内にも仲間のみんなにも必死にタフな笑顔を見せた。でも内心はガクガクで足なんて本当にカクカクだった。

建ったばっかりの六本木ヒルズがギラギラ僕を見下していた。あの頃は奴が東京の象徴のようで、怖くて直視できなかったな。

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ふと我にかえる。当社CROWNと同じ年のヒルズは今日も変わらずギラギラしている。

「不動産契約の帰りに口笛吹いてよ、
お前もえらく立派になったもんじゃねーか」

ヒルズにそう言われた気がした。
ドキッとしてうつむいた。

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「でもよ・・」

あの頃見えていなかった道筋が、今は見える。もう夢じゃない。現実の道筋と到達すべき場所だ。大勢の仲間もできたよ。みんなで世界に行くんだ。一日でも早く東京を、いや日本を卒業してやる。

そう思ってもう一度見上げると、

ヒルズはヒルズだった。
ただのビルディングだった。

信号が青に変わる。

ペダルを力いっぱい踏み込んだ。

風が吹いた。
さあ行くぞ。

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というわけで、AREAの新店舗ができます。
今回はグリーンシードさんにお世話になります。
また詳細はご報告しますね。













2015年3月26日木曜日

酒席でのビジネス作法


ある百貨店の上層部の方々と飲んでいる。大企業の上から数えて10本の指に入る人たちだ。

もうもうと煙がこめる表参道の安居酒屋。焼酎のロックは電気入ってるの?ってくらい舌がビリビリするし、野菜炒めなんて塩とバターの味しかしない。いや美味しいんだけど。美味しい?うーん・・。その昔、独立をなんとなく決意したのがこの店だった。だからかな、居心地よくて美味しく感じるのかもしれないな。まあどうでもいい話だね。

当社CROWNは、AREA(エリア)が主に三越、伊勢丹、西武、SOGO、小田急とお付き合いしていて、日頃大変お世話になっている。ちなみにSC(ショッピングセンター)はPOLIS(ポリス)の担当だ。

話は金融、円安株高、インテリアマーケットの世界トレンド、この春の人事から一年後のフロア改装まで雑々した感じで進む。ビジネスの飲みというのはお互いに用事があるからこそ開かれる。相手は伝えたいことがあるし、僕も伝えたいことがある。でもそれを最初から話したら、10分で宴は終わってしまう。大人の飲み会の呼吸というのはお互いがどこのタイミングでどんな話を挟んでくるかということに気を張ってなければならない。いやむしろそこが楽しいのだ。とっても日本的だね。

「あっそうそう、それに関係ある話なんだけどさ(微かに間があく)・・」

と来ると、あ、来たなと思う。
関係ある?・・ならあの件か。
予習していれば大抵見当がつくよね。

「・・・の件ですね?」
「そうなんだよ! どう思う?」
「(もともと考えていた妥協案)ですね」
「よし分かったそれなら話が早い・・じゃあこうしよう・・ところで話は変わるけどミラノでさ・・」

そして話がまた別のたわいのない方向へ逸れて行く。こういう楽しくもスリリングな応酬の瞬間が何回か訪れて、自然とリンゴが地に落ちるように宴が終わる。

お互い忙しいビジネスマンだもん、用事があるから飲むんだよ。でも何て言うのかな、おおっぴらにその話題を口にしない。そのへんがすごく日本的だと思うんだ。まあ、酔っぱらいながらウンウン悩みたくないしね。それをしたいなら会議室でやればいいんだよね。だからお互いに事前に成り行きを予測したシュミレーションをしておく。それが日本におけるビジネス上での飲みの作法なのだ。

ちなみにこの話の重要なポイント。それは、企業同士の最重要な話ってこんなシチュエーションで決まるケースが多いという事実だ。

不思議な話だね。





2015年3月25日水曜日

甘く危険なデザイン


春の日差しがポカポカしている代官山TSUTAYA。
インテリアや美術の棚を行き来して資料を探していた。

時々知った顔(デザイナーや雑誌社の編集長とか)を見かけると、ササッと棚の裏に隠れたり、本で顔を隠したりして逃げ回る。黒いパンツとよれよれの白いシャツだと代官山のおしゃれ族の中で逆に目立ってしまうのだな。そんなことを思いながらiPhoneでQueenを聞いている。Brian Mayのギターソロは教会の中に迷い込んだ気持ちにさせる。独特の音。ピックの代わりにコイン使ってるんだっけ。

ゴシックの照明。このデザインヒントを探している。

あたりまえだけど、当時は電球なんてないロウソクの時代なんだから、シルエットデザインは相対的にロウソクの特性がベースとなっている。シャンデリアの光源と光源の間が離れているのは近くに設置したら火がお互いのロウソクを溶かしてしまうからだ。わざわざ現代の日本に照明を産み出すのだから表面的なデザインを劣化コピーしてもしょうがない。本質を掴みたいなと思っている。

ゴシックとは「神秘死」の概念だ。飢餓やペストなどの不安に、抗うのではなく、逆に身をゆだねちゃえ! みたいな。極限で剥き出しになる人の弱さみたいなものが形になったものなのだろう。死、退廃、廃墟、ロマン。それは一見、東洋哲学の「侘び寂び」に似ているけど、ベースに再生の喜び(輪廻)がない分、とても救いがない。救いの方向が「たったひとたびの滅び」なのだ。そんなデザイン血清だけを純粋にうまく抜き出したいという気持ちがある。でもそんなの抜き出した照明・・例えばフロアスタンドなんて誰が使うんだろう。夜になって、光りをポッと灯したら部屋が神秘死で溢れる。そんなの辛い。やっぱりバニラエッセンスをたった一滴・・再生の出口を入れるべきなんだろうな。

ガラスの向こう。春の光りの中で子供たちが楽しそうにはしゃいでいる。ゴシック建築概論(黒くてやたら分厚い本)をバタムと閉じて棚に戻すと、目を閉じた。

退廃の音が鳴っている。
Brian Mayのギターは本当にゴシックだな。

てをとりあってこのままいこう
あいするひとよ
しずかなよいにひかりをともし
いとしきおしえをいだき

再生に満ちあふれたFreddiの声の裏で。
甘く危険な退廃がうねっている。




2015年2月22日日曜日

はるかかなたの 



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湘南電車に揺られている。
ああ。今は湘南電車とか言わないのかな。
茅ヶ崎に帰るのは久しぶりだ。
近くて遠い僕の故郷。
グリーン車には誰も乗っていない。
6月の物憂げな光だけが車内に充満している。

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なんだこれ?
僕らは完全に困惑していた。
その飲み物が無駄にキラキラしいて真っ青だったからだ。

ケンジ「だからブルーハワイだって」

午前中早々に海沿いの高校を抜け出した。
校舎の裏に駐車してた愛車(ジョグだのパッソルだのスーパータクト)に乗って、僕らは海水浴場そばの喫茶店でたむろしていた。

僕   15歳 (無免許)
ケンジ 16歳
淳   16歳

いつもの3人。
適当な話で盛り上がっていた。

茅ヶ崎・1984年

ケンジ「君たちこれがカクテルといものだ」

と得意顔で説明してくれる。どうせポパイとかホットドックプレスとかの受け売りなんだろうけど。ハンサムで(でも私服のセンスは最悪)いつも訳知り顔のケンジ。チビでおとなしくて足が不自由な淳。そして僕。

僕  「・・オシャレじゃねーか」
淳  「これ飲めばモテるの?
ケンジ「いーからお前らも頼めよ」
淳  「えー?僕、酒飲んだことない」
ケンジ「うそ」
僕  「で?ケンジこっちは?」
ケンジ「どれ?」
僕  「ソルティドッグとかいうやつ」
ケンジ「・・・・」
淳  「何味?
ケンジ「し、知らねーよ。頼んでみな」
僕  「よし淳、お前が飲め」
淳  「やだよ。ドッグって何だよ。
    犬とか出てきたら困るよ」
ケンジ「んなわけないじゃん」

6月の茅ヶ崎。
まだ静かな海が窓の外に輝いている。
夏になるとビーチは人ごみでごった返す。

淳  「・・・・・」
僕  「縁になんか付いてるぞ?」
ケンジ「砂糖だろ?
僕  「どうやって飲むんだよ?」
ケンジ「だから知らねーって言ってんだろ!!」

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「社長・・お電話が入っています」
「今忙しいって言ってくれ」
「急用とのことですが」
「誰だ?」
「それが・・ケンジと言えば分かると」
「ケンジ?」

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僕  「ユキちゃん?まじで?」
ケンジ「まじだ」
淳  「へ、へー」
   「あんな美人がケンジをねー」
ケンジ「うっせーよ」
僕  「で、どこにデートに行くかだ」

ケンジはマクレガーのしわしわのボタンダウンシャツの襟元を神経質に気にしながら、いつになく自信なさげな顔をしている。

僕  「よし、わかった。
    今晩デニーズで作戦会議な」
ケンジ「あー今晩はだめだ。俺バイト」
淳  「まだ鵠沼のマック?」
僕  「じゃあなおさら鵠沼だな」
ケンジ「お前らみえみえなんだっつの。
    あれはもう作らねーぞ」
僕  「はっはっは」

ケンジのバイトしているバーガーショップで目を盗んで作ってもらう肉の5枚重ねバーガー。僕らはそれをホームランバーガーと呼んでいた。

ケンジ「そろそろバレそうだからよ」

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夜、自宅の二階の窓からコッソリ庭に出る。スクーターを押して家が見えなくなってからエンジンをかけた。国道134号線はねっとりとした濃い潮の匂いに包まれている。時速70kmでかっとばす。

梅雨独特の水っぽい匂いだ。
また夏が来る。
心がうきうきしてきた。
今年は毎日海水浴場でナンパしよう。

バーガーショップではもう2人で熱い激論がかわされていた。

ケンジ「だーかーらー。
    ジャケットくらい着ないとか」
淳  「そりゃそうだよ。
    あの子はオリーブだから
    Do Familyとかだよ?」
ケンジ「お前ユキの事やたら詳しいな。
    つーと、やっぱりあれか?
    リーバイスとヘインズだな?」

やはり焦点はケンジのファッションらしい。リーバイスだったら501だよ?持ってる?淳がしつこくアドバイスしている。

僕  「制服でいいんじゃん?」
ケンジ「アホか。
    日曜日になんで制服着るん
    だよ。お前、彼女の影響で
    紡木たくとか読んでっから
    そういう発想になるんだな」
淳  「きゃっきゃっきゃっ」
僕  「はいはい。あれ?
    なんでケンジ座ってんの?
    バイトは?」
ケンジ「さっきやめた」
僕  「まじで?なんで?」
ケンジ「時給下がった」
僕  「まじで?いくら?」
ケンジ「500円」
僕  「まじで?深夜で?ひでーな」
淳  「ねーねー
    まじで?ってはやってるの?」
僕  「しらねー。最近のクセ」

まじで?って言葉すらまだない
バブル前夜の日本。
僕らの16歳の夏はこんな感じで始まった。

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横浜、山下公園
デート中のカップルが一組づつベンチに座っている。僕と淳は芝生に座ってケンジとユキちゃんを見張っていた。夕方。もうすぐ陽が落ちる。

ケンジ「キスするぜ?俺は」
僕  「できないだろ初デートだぞ」
淳  「できないとかじゃなくて、
    しない方がいいのでは?」
ケンジ「キスできたら何かおごれよ」
僕  「うまか棒でいい?」

というわけで、その証拠確認のために見張っているのだ。

僕  「待ちくたびれたな」
淳  「中華街で迷ってるのかな」

手持ち無沙汰だったから、AIWAのウォークマンにカセットを入れた。ヘヴィメタルが頭の中で爆発する。頭からイヤホンを外して、聞いてみ?と淳に放った。

僕  「やっぱ最高だなACTIONは!
              マイケルシェンカーよりいい」
淳  「えー?今時はマドンナだよ」
僕  「誰それ?」
淳  「ミュートマ見てないの?
              あとマイケルジャとかさ」
僕  「マイケルじゃ?」
淳  「ねー今度公開生放送行こうよ」
僕  「行く行くどこでやってんの?」
淳  「横浜SOGOの地下だって、
              伊藤政則見れるよ」
僕  「へー・・おっと。来たぞ」

ケンジとユキちゃんが公園に入ってきた。ケンジが緊張しているのが遠目からもわかる。なんかぎくしゃくした歩き方だ。ユキちゃんはスラッとした白いワンピース。ケンジは・・。

淳  「あーっ! リーバイス穿いてない」
僕  「あれは・・・ボブソンだな」
淳  「ああっ」
僕  「なんだよ今度はどうした?」
淳  「ベンチが空いてないっ」

淳の言った通り公園内の無数にあるベンチは無数のカップルで埋まっていた。

僕  「まずいな・・・」

5時半にはベンチに座る。
30分ほど話で盛り上がる。
6時に氷川丸の汽笛がなる。
ムード満点の中キスをする。
これがケンジ先生の計画だったのだ。

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僕  「淳」
淳  「何?」
僕  「ちょっとうんこ探してこい」
淳  「え?」
僕  「あと棒な」
淳  「まさか・・・」
僕  「無理矢理席を空けるしかない」
淳  「やだやだ。やだよっ。
    アラレちゃんかよ」
僕  「友情のためだ」

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結局、いくら探してもうんこは見つからなかった。

2人でカップル相手に席を譲ってもらえるようにしどろもどろ交渉してたら、ユキちゃんに見つかった。

ユキちゃん「あれー?何やってんの?」

私服のユキちゃんは本当に美人だった。色が白くて、髪がつやつやしてて。横浜の夕暮れの逆行の中でニッコリ笑ったユキちゃんはハッとするほどキレイで、本当に天使のようだった。

僕  「いや、別に・・なっ淳?」
淳  「うん、たまたまだよー」

淳がやたら真っ赤っかになってモジモジしながら言った。

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その夜。藤沢のディスコ「万華鏡」。
「Tonight is what it means to be young」が流れている。ケンジがユキちゃんとフロアで踊っているのを眺めながら、淳と僕は奥のシートでチークタイムを待っていた。

淳  「この曲・・」
僕  「ストリートオブファイアだな。
    ダイアンレイン主演の映画」
淳  「かっこいいよね」
僕  「なに?聞こえねー」

大音量のユーロビートで淳の声がかき消える。淳の隣に行って耳を寄せた。

淳 「ケンジはかっこいい。
   あの映画の主人公の
   マイケル・パレみたいだ」
僕 「そうかー?」
淳 「僕、好きなんだよずっと前から」
僕 「あー俺も好きだよ、裏ないし。
   ちと服がださいけど」
淳 「じゃなくてユキちゃんのこと」
僕 「は?」

驚いて横の淳を見た。
膝を掴んで淳はうつむいていた。
不自由な方の左足。

僕 「えっと・・。
   それは何ていうか・・あれだ」

淳が僕の視線に気づいて手を膝からパッと離して、へへへと笑った。

淳 「ねー将来なにになりたい?」
僕 「へ?俺?・・・
   ま、漫画家か小説家かな」
淳 「僕は何になれるのかな」
僕 「えーと。」
淳 「僕は未来が怖い」

若年性パーキンソン病。
これが淳の病名だった。

淳 「でもね」
僕 「お、おう」
淳 「言ってみる。告白してみる」
僕 「お、おう?
   え? ま、まじで?」

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保留の電話に出た。

「よお、ひさしぶりだな」
「ケンジ・・どんだけぶりだ?
 なんかあったのか?」

ケンジは地元の建築会社に勤めていたはずだ。ずっと音沙汰なかったのに・・。
いやな予感がした。

「淳か?」
「ああ」
「まさか・・」
「いやまだだ。しかしちょっとな・・。
 会って話したいんだ。
 次の日曜日に時間とれないかな?」
「わかった。行くよ」
「悪いな忙しいだろうけど」
「いやいいよ」
「しかし本当にお前が家具屋になるとはな」
「そうだな。お前らがそのきっかけを作ってくれた。感謝してるよ」
「そのへんの話はまた日曜日な。えーと場所は・・」
「デニーズか?」
「お前本当に茅ヶ崎に帰ってないんだな
 あそこはとっくになくなってるよ」

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久しぶりの茅ヶ崎駅のホームは水の匂いがした。改札を降りて南口を出た。タクシーを拾おうとして考え直した。歩いて行こう。雄三通りを海へ向かった。スーツのジャケットを脱いだ。この街には似合わない。

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大きな入道雲と青空の下で僕らは汗だくになっていた。浜見平団地の大型廃品置き場。僕の目当てはソファだった。

ケンジ「ホントにここか?」
僕  「間違いない。
    昨日運び込まれるの見たんだ」
淳  「なんでソファが必要なの?」
僕  「自分の部屋に彼女来る。
    何か飲む。おしゃべりする。
    そのあと何する?淳君?」
淳  「マンガ読む?」
ケンジ「はっはっは。子供か?
    コロコロコミックか?」
淳  「なんだよう」
僕  「布団出すわけいかないよな」
ケンジ「なるほど。頭いいな」
淳  「あーなんか楽しいね」
ケンジ「あー?」

思うんだけどさ・・って
淳が空を見上げて言った。

淳  「人生をただ楽しむ、それ以外に
    必要なものなんてあるのかな


不純な動機こそが僕らのエネルギーだった。田舎の海沿いに住む高校生のやることなんてたかが知れてる。海でサーフィンして音楽聞いて家帰って彼女と遊ぶ。人生をただ楽しむ。それ以外に必要なものなんてあるのかって?・・あるわけないだろ。純粋にそう言い切れた季節だ。でも大人になるといろいろとあって、なかなかそういうわけには行かなくなってくる。それはしょうがないことだ。

たわいない冗談を言い合いがら
ボロボロのソファを運ぶ僕ら。
その上に、
神さまからの祝福のように、
天気雨が降り注ぐ。
遠くに虹がかかる。

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家具屋になったキッカケって何ですか?40を過ぎてからそういう質問を受けることが多くなった。いつもあたりさわりないことを答えるけど。そういう時はいつも、僕は頭の中であの光景を思い出している。三人で運ぶソファと天気雨と遠くの虹。

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ケンジ  「というわけでさ」
ユキちゃん「そんなこと言われても」
ケンジ  「だよな」
ユキちゃん「どうして欲しいの?」
ケンジ  「うーん」
ユキちゃん「わかった。
      私、淳君の話聞いて、
      ちゃんと考えてみる」
ケンジ  「え・・?」
ユキちゃん「その上でケンジ君を選び直
      す。私が淳君の立場だった
      らそうして欲しいって思う
      から」

これは後日ケンジから聞いた話。
ケンジはこの時生まれてはじめて
恋に落ちた。

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ケンジ「なー」
僕  「ん?」
ケンジ「キスするより大事なことって
    ・・・あるんだな」
僕  「はいはい。お幸せに」

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シークレット・ミニビーチ。国道134号線を横切って防砂林の松林を抜けた。車の入れない、地元の人間しか知らない小さなビーチだ。ユキちゃんは、どこにもつながらない作りかけの舗装道路の上に立っている。遠く伊豆半島と箱根山の間くらいに陽が落ちようとしていた。

僕  「かっこつけろよ、淳」
ケンジ「淳・・何て言うか・・俺・・」

淳はモゴモゴ言っているケンジを睨みつけた。真っ青な顔をして。少し震えている。そのまま動けないでいる。

僕  「怖いもんなんてねーよ。
    俺たちにはよ。
    プライド失くすこと意外はな」
淳  「それいつもの口癖だね」
僕  「お、おう。こう言ってると
    強くなれる気がすんだよ」

淳の顔がキッと引き締まった。そして、ふっと歩き出した。足をひきずって歩く淳がすごく大きく見えた。

ユキちゃんが振り向いた。夕陽のシルエットが2人を包んだ。淳は頭をせわしなくかきながら、身振り手振りで、おそらく彼にとってこの世で一番大事な想いを伝えていた。

ケンジ「なあ・・」
僕  「ああ。かっこいいやつだよ」
ケンジ「おれたち変わんねーよな」
僕  「おう。変わんねーよ」
ケンジ「先に行ってようぜ」

2人を置いて歩き始めた。
今日は夏祭りだ。
このあと4人で行くことになっていた。
これからもきっと笑って話せる。
俺たちは大丈夫だ。

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約束の場所。シークレット・ミニビーチ。くたびれたネズミ色のスーツのケンジが立っていた。そしてその横に車いす。何重にも毛布にくるまれた淳がいた。老けてその上ひどい顔色だったけど。間違いなく淳だった。クリッとした目が微かに揺れた。

「ケンジ、ひさしぶりだな」
「ああ。相当ぶりだ」

しゃがんで淳の顔を覗き込む。

「淳?」
「やあ・・・久しぶりだね。ごめんね・・仕事忙しいのに。それと・・・すごく活躍してるみたいじゃないか」

とぎれとぎれの細い声。
ケンジが右手で両目を覆っている。

「淳、なんていうか、その・・連絡もしないで・・俺」
「そうだよ。ひどいよ。今日は僕、一言だけ言いたくてさ」
「ああ。なんでも言ってくれ」
「青山とかミラノもいいけど、もう一度茅ヶ崎にお店を作ってくれ。ここ以外に僕らにとって大事な場所があるはずないだろう?」
「ああ、ああ。わかった。約束する」
「あとね、今の君の仕事のきっかけは僕たちが作ったんだぞ。憶えてるかい?ソファ運んだじゃん。それを忘れないで欲しいんだよ」
「もちろんだよ。わかってる」

「僕はもうすぐ行く」

淳はあの時と同じ、キッとした表情でそう言った。伊豆半島と箱根山の間に陽が落ちようとしている。大きな入道雲が薄むらさき色に染まっていて、アスファルトが足もとでまだ熱を持っていて・・・。

「淳、淳。行くとか言うなよ。また遊ぼうぜ? 俺らよ、すっかりおっさんになっちまったけどよ、また、ナンパとかしようぜ? つーか俺もう結婚してんだけどな、でも全然つきあうぜ?な?うんこ探せとかもう言わねーしよ。だから行くとか言うなよー。おい、聞いてんのかよ! ! 頼むからよーー」

堰を切ったように泣き出してしまった。ボロボロと毛布に涙が落ちた。淳が優しい顔でそんな僕を見ている。ケンジは遠く、海の向こうを見ている。肩が小刻みに揺れている。やがて淳が口を開いた。

「それとね、お礼を言いたい」
「え?」
「怖いもんなんてねえ。プライドを失くす以外はよー」
「・・・・」
「僕は君のその言葉でここまでがんばれた」
「淳・・」
「本当にありがとう」

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はしゃいだ僕ら。金魚すくって、射的やって、よその高校の奴らとちょっと揉めて。楽しいな人生ってのは。僕がそう言うとケンジがなんかちゃかしたことを言った。次はどうする?・・って今なら何やっても楽しいって自信があるんだ。

ケンジ「やっぱりあれだろリンゴ館!!」
僕  「リンゴ飴だろ?」
淳  「ケンジ漢字読めないからね」
ケンジ「うっせーな淳は。
    ねるねるねるねでも食ってろ」

ユキちゃんが淳とケンジの間で笑っている。

僕  「明後日は花火大会だろ」
ケンジ「だなー」
淳  「楽しみだね」

ちょっと間を置いて淳が言った。

淳  「ねー、前も言ったけどさ、
                野田はどう思う?」
僕  「何の話だっけ?」
淳  「人生を・・・」

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人生をただ楽しむ。それ以外に必要なことなんてこの世の中にあるのか?

そうだね。
淳・・。

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ないよ。
あるわけないよ。

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end





2015年2月9日月曜日

義経寒梅




とある2月の寒い朝。
僕は田舎駅のホームに立っていた。
里の坂道を目で下ってその向こう。
遠くの海がきらきらと朝日を浴びている。

ホームの端。
梅の小さな木が咲いていた。
その姿がなぜか無性に美しくて携帯で写真を撮った。
「あ、あの木でしょ」
「あの木がどうしたの?」
観光客とおぼしき2人組の女性が、
電車を待つ僕の後ろで会話を始める。
「さっきのお寺の古梅の子どもなのよ」
「あの枯れた義経梅の?」
「そう。市役所が株分けしたんだって」
「株分け?ああ、それは良かったわねぇ。元気じゃない」

はっとして、僕はもう一度その梅の木を眺めた。
はかなくも毅然と立っている。
そうか。
その方法なら、なんとかなるか。

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最近コンサルの依頼が多い。
家具屋さんからのコンサル依頼だ。
でも僕は5年前にその仕事はやめた。
理由はいろいろあるけど、
簡単に言えば、自分の家具事業に
しっかり腰を据えたかったからだ。
最近は依頼があっても丁寧にお断りしている。

ところが、2ヶ月前に、大きな企業からご連絡をもらった。
その会社の社長は以前、とある団体でお世話になったことのある方だった。
むげに断れなかった。
事業案だけでも見てもらいたいとのことだったので、足を運んだ。

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拡大策。
その事業案にはこれでもかってくらい夢がいっぱい詰まっていた。
でも、僕にはどうしてもそれらが単なる夢にしか見えなかった。
人とモノとお金の概念がストンと抜け落ちていた。
「現状、この案で事業規模の拡大は不可能ではないでしょうか」
思ったことを一生懸命お話しした。
しかし先方の社長は尊大な顔をして、
桶狭間の戦いとかニトロはニトロで消すとか、
そんな話をひとしきりされた後、
「否定するなら代替案くらい出しなさい」
と言った。
行き詰まった大企業の拡大案。
正直に言って僕にはまったく想像もつかなかった。
「すみません。考えつきません」
横にいた専務が『そら見たことか』という顔をした。
恥ずかしくて顔が赤くなった。

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戦後の家具屋は家具を売っていればよかった。
家具のジャンルは多くても2、3種類しかなかったからだ。
昔のレコード屋と同じだ。
音楽も当時はクラシックとポップと演歌くらいしかジャンルがなかったのだ。
そう言うと、いやいや君、ウチはあらゆるジャンルの家具を揃えているぞ。
そう言う家具屋さんは多いかもしれない。
でも、実際はその「あらゆるジャンル」が単純に3〜4種類からの派生に過ぎなかったりするのだ。

いや、違うか。
そもそもそれ以前の問題なのだ。
モノが行き渡った現在の日本では、
「あらゆる」という考え方が無効になりつつある。
青息吐息の百貨店がいい例だ。
「あらゆる」は「たった一つの」に変わろうとしているのだ。


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「僕は、この時代の家具屋は仕入れたりしていたらダメだと思います」
「また、そういう核論を言う」
やれやれといった感じで社長が頭を振る。
「ではどうすればいい?」
横から専務が口を挟む。
「作るんです」
「作る?家具を?販売店が?」
「はい。家具を作ること自体も大事ですが、定価をつける権利を持つんです。また、オリジナルというのは御社だけの家具という意味です。もう百貨を持つ時代ではありません。たった一つのどこにも負けないオリジナルを作りましょう」
「フロアがもたないだろう」
「そ、そうですね」
「そんな人材もいない」
「そ、そうですかね」
「うーん。今のやり方を変えずにうまく行く方向はないもんかな」

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今のやり方を変えずにうまく行く方向?

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梅の木が寒風に揺れている。
電車が入ってきた。
2人連れの女性を乗せて走り去った。

株分けだ。
ある意味、禁断の方法が頭をよぎった。
会社を複数に分けるんだ。
この梅の木のように。
それは大きな痛みを伴うだろう。
しかし、
できるんじゃないのか?
問題はお金を絶やさないようにすることだ。

貸借と損益はだいたい覚えている。

頭で計算する。
まずは止血。
銀行の許容度。
早期退職制度。
フロアのレンタル方法。
広告出費を逆に収入にする方法。
ここまでは大丈夫だ。ギリギリだが、できる。

別会社・・作る。
不採算部門の一部を移す。
そのまま塩漬け保存。
分母を小さくする。
そのまま〇〇金額(伏せます)を操作。

しかし新規借り入れは不可能。
社債、現実的ではない。
投資企業。
キャピタル系は避ける。というか無理。
個人投資家。個人投資家・・・。
そこでバチンときた。
いるいるいるいる。うってつけがいるじゃないか。
そうなれば、がぜん現実味を帯びてくる。
さらに取締役外名義の新々会社を2社・・作る。
MBO?さすがにそれは無理か。
まあいいや。
そこはいくらでも方法がある。
破産申告。
元会社処分。
新会社でメーカーを買う。
買い先。
メーカーK社もしくはD社。
彼らは喜んで応じるだろう。
メーカー社長の席をそのまま確保。
先代との約束なんて知ったことか。
最後の仕上げ。
メーカー機能を持った新会社と新々会社2社を・・・。

バランス。タイミング。
大事なのはこのたった2つだ。
バランス、タイミング。
バランス、タイミング。
ノートを取り出した。書き込んでは書き込んでは
何度も試算を繰り返した。

机上の試算。いやホーム上の・・か。
しかし、この結果だったら充分試す価値がある。

ノートの右隅。

最後の行には、
300坪のお店を持った新々会社が強く小さく残っていた。
小さく?いや、むしろ最強の利益剰余金の可能性を携えてる。
魔法のようだが魔法ではない。

もう一度、梅の若木を見下ろした。
目の前のこいつのように。

いけるかもしれない。
いや、いける。
携帯を掴んだ。

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携帯の向こう。専務の冷たい声。
「あ、あの話ね。もう別の人に頼んだ」
面識はないが知った名前。名うての事業整理屋(腑分け屋)の筆頭だ。
「でも専務。生き残るにはまずは小さく・・」
「ウチはまだまだ大きくなるんだよ、起死回生だ」
「起死回生・・・」
「そうそう。戦略名は『桶狭間』に決まったよ」
「桶狭間・・・」
「まあ、そういうことだから」

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大きな陸橋を列車は走る。
切れた携帯をそのまま右手に持ちながら、
ボックス席の車窓から外を見ている。
「ははっ」
自分の小さくて渇いた笑いを聞いた。

冬のような
春のような
そんな日差しが海に注いでいた。


2015年1月19日月曜日

15号車夢録





新幹線でうとうとしている。
15号車。誰も乗っていない。
結露した窓を指で抜く。
寒そうな関ケ原。風がびょうびょうと鳴っている。
音は聞こえない。もちろん聞こえないんだけど。

A-4という椅子を開発した。
万人に好かれる椅子とはなんだろう。
ずっとそう考えてデザインした椅子だ。
自分の店だけで売るのはもったいない。
出来上がったA-4を見てそう思った。
友達の家具屋にも紹介したい。
そんな訳でこうして西に向かっている。

朝露の野営地。
テントを出た途端の不吉な曇天。
リチャード(1世)は思う。
何もないこの荒野にどれだけの価値があるというのか。
視線の先に苦虫を噛み潰したようなフィリップ(2世)の顔。
わかっている。わかっているが。
「おはよう。まだやろう」
盟友の肩を抱いた。
この山並みの向こうで奴が待っている。

それにしても。
寒い車両だ。
寒くて暗い。
一度脱いだコートを着込んであたりを見回した。
熱いコーヒーが飲みたかった。
車両の向こう、デッキに人影。
ワゴン販売の女性が顔から入ってきた。
ゆっくりと僕に近寄ってくる。

サラディンは悲しく透き通った目をしていた。
リチャードは奥歯を噛み締めてかろうじてそこに立っていた。
「我々は遠くから来た」
「そして遠くまで行くのだ」
内蔵を吐き出すようなリチャードの言葉に
サラディンは微かに頷いた。
リチャードの側兵が背後でジリッと動いた。
サラディンが静かに唇を割った。
「私たちは・・」

その女性から受け取ったコーヒーを手に取った。
おつりの硬貨を渡された。
ほぼ表情のないその女性が一瞬窓の外に顔を向けた。
私は両手で暖かいカップを持ったまま、つられて窓の外を見る。
遠くに大きく連なる山並みが見えた。
大きい山だ。どれだけ大きいかはわからない。
ものごとは、
近すぎても
遠すぎても
早すぎても
遅すぎても
その実態を掴めないものだ。
顔を戻すとその女性がじっと私を見つめていた。
そして言った。
「中身をこぼさないようにお気をつけ下さい」


「私たちは・・・ここにいる」
「どこに行く必要もないのだ」
サラディンの透き通った美しいガウンが揺れた。
「なぜなら」
言いかけたその時。
遥か東からの風がドウッと吹いた。
リチャードの側兵が動いた。
風のように視界からサラディンが消えた。
リチャードは手すりに駆け寄り下を見下ろした。
長い螺旋回廊の下からサラディンがあの目で見上げていた。

窓からの光りとザワザワとした気配に目を覚ました。
車両の人々がめいめいに降りる支度をしていた。
列車が大阪駅に着こうとしていた。
あわててカバンとコートを掴んで立ち上がった。
コロッとコーヒーの空きコップが落ちた。
拾い上げた。
大阪駅のホームは冬の陽だまりに溢れていた。
携帯を取り出して先方に電話をかけた。
「今着きました。あと30分くらいで・・」

祝福の光りに照らされた、
ボロボロの帰還行軍。
野の花の咲く道すがら、
リチャードは聞き逃した彼の最後の言葉について考えた。

分かりようもなかった。

振り返り
振り返り
遥かな
山々を望み、


彼はなぜか故郷の妻と子供のことを思った。